エッセイ2007年7月


41.料理は愛情?
(7月7日更新)

一月ほど前だったろうか。ある日本人のお客様から″Les Fougères"宛に「日本人シェフがいる時が特においしいと聞いているので、彼が働いているシフトを教えて欲しい」というメールが届いていた。返事を出すと、何でもお友達の方が常連で、「何度も行ったけど、今日のシェフは日本人ですよと言われた時が一番おいしかった」と聞いたのでという返信メールを戴いた。料理人は誰しも「おいしい」の一言に弱いのだから、それはそれで嬉しいのだが、本来誰が作っても同じクオリティで出しているべき物。しいて言えば、やはり私が作ると意識するしないに限らず日本人好みの味になっていると言う事はあるのかなと考えてみた。やはり、味覚には生まれ育った環境や先祖から伝わってきた味覚のDNAみたいなものがあると思う。私がフジェールで長年作っている「本日の魚。エーグルドゥース ソース添え」と言うのがある。エーグルドゥ−スとは″aigre"(酸っぱい)と"doux"(甘い)と言う言葉の複合語で読んで字のごとく甘酸っぱい味付けのものを言う。このソースは昆布と野菜で取った出汁(グルタミン酸を強く出し、イノシン酸は魚そのもので引き出したいので)をベースにし、尚且つ隠し味に醤油も使っていることから、これこそ日本人向けと思われるかもしれないが、実は核となる酸はバルサミコ酢、甘みはメープルシロップで取っていて、むしろカナダで生まれ育った人達の味覚をターゲットに考えた物で、この意味で成功し、お陰さまでフランス系のお客様を中心に人気メニューとなった。しかし逆に一切日本の調味料を使わず、手法も何も全てフランス料理として作る物こそ、知らず知らず日本人好みの味付けになっていると言う事はあるのでは無いかと思う。日本人のお客様が私の料理が特においしいと言ってくださるのはそういう事だろうと思ったのだ。否事実それが主な理由であろう。
しかし、最近別の友人(カナダ人)から「はっきり言って近頃″Les Fougères″の料理は落ちたな。Nakiがいる時だけ行くよ。それより″Le moulin"に行った方が早いか。Ha Ha Ha」などと言われた。これはあまり嬉しくないコメントだ。″Les Fougères"はカナダにおける実家みたいな場所なのだから。ただフジェールも今は組織が大きくなり、いろんな人がソーシェとして料理を担当している。一定の修行を経た料理人であれば実の所技術的に差がある訳ではないと思う。ただ料理に対する愛情がどれだけあるかと言う事は結構大きな差となって現れてくる。こういうことを言うと笑われる方もいるかもしれない。しかし「料理は愛情とか言うけどさ。技術がなければ始まらないよな」とか言うのは殆ど素人の人達が言う事で、料理における技術はそもそも皆愛情から始まっていると言っても過言ではなかろう。「見た目も美しく楽しんでもらいたいな」とか「面倒でももう一手間加えたらもっとおいしくなるな」とか、そんな小さなことが全ての根源にある。スープを例にとって話をしてみよう。例えば薩摩芋のスープなんてそのまま薩摩芋を煮込めば一応の体裁になるし、実際にそんな風に作っている人が結構多いのだ。しかし薩摩芋はじっくりロースト(あるいは日本で言えば石焼き芋の様なスタイルで)する事で甘みが出るのは常識だ。それをオーブンでローストしている間にマルミット(寸胴鍋)で大量の玉葱をとろとろになるまでシュエ(汗をかいたような状態に水分を出させる)しておき、これに先の薩摩芋を加えて、野菜の屑から取った出汁を加えて煮込み、ミックスする。たったこれだけの事で、他の甘味料など一切必要としない野菜本来がもつ甘味が出る。正直今の私の立場では″Les Fougères"に行ったときは他のソーシェにまでこういった事を指導する事は僭越であるから出来ないし、そもそも他にソーシェが居ない時に手伝いに行くのだから顔もあわせないのだが、″Le Moulin"では皆に伝えている。作り方だけでは無い。今の季節なら朝起きてみて予報に反して急にとてつもなく蒸し暑い日になることがある。こういう時冷たいスープを用意していなかったら、朝一で他の仕事に優先して冷製スープを作り、幾つものボールに分け、下に氷を引き、それらのボールをそのまま冷凍室に入れ、5分置きにかき回しに行き、60〜70人前くらいのスープを一気に冷やす。これで営業開始ぎりぎりに冷たくなる計算だ。しかし残念ながら、10人中9人まで「予報がこう外れちゃしょうがないよな」と熱いスープを出してしまうのだ。それはそれで止むを得ない面もあるとは思う。朝はそれでなくてもやる事が山ほどあるのだから。しかし、「こんな日は冷たいスープが飲みたかったな・・・」というがっかりした感想を聞きたくないし、何とか間に合う物なら・・・となるのが愛情の発露だと思う。偉そうに書いているが私だって、「客席は冷房も入っているんだからいいか」と熱いスープを出した事があったが、当時はジョルジュがいて、「Naki、君らしくないじゃないか。こんな日に熱いスープかい?」と言われ、以来こういう方針を崩さずにやってきたという事だ。勿論今のシェフ パディは効率第一の人だから、そんな事は言わない。だからこそ私がジョルジュ・ローリエ流の愛情を継承したいと思っているし、効率第一と言ったってパディも又ジョルジュ流を継承するのを望んで私を慰留し、全て任せてくれているのだから、これが私の仕事だろうと思う。
それにしても最近、レストランガイド等に頼らず、口コミで″Le Moulin"の料理はおいしいと評価され始めたのは何より嬉しい事だ。
42.ル・フジェールのレシピ本
(7月23日更新)
全く更新する暇が無いまま7月も終盤に入ってしまった。週に1度の休みも取れないまま毎朝7時には職場に入っている。と言っても日本のこの業界に比べれば楽な物で夕方には仕事を終え、夜はパディやロメインに完全に任せきっているからせいぜい11時間勤務程度まで。以前はジョルジュがこのシフトで、私が夜を引き継いでいた訳だが、生来夜型の私にはその方が断然楽ではあった。もっとも街場のレストランと違ってレストランの昼間の仕事は多種多様である所は面白い。結婚式の打ち合わせから準備、企業会員の為のブッフェのメニューを朝一で書いて皆に伝達して作り始めつつ、通常のアラカルトの準備の指示、業者さんとの交渉・・・日によって仕事の内容が変わってくる。こういう立場で仕事をすると、宴会料理やパティシェなど、やっている時には自分には畑違いかと思っていた経験が活きてくるのは有り難い。
今日はル・フジェールで働く日曜日。勿論このシフトも実に忙しいのだが、何かスポーツでもやっているみたいに次から次へとアラカルトメニューを短距離走のような勢いで出して終わりと言うこのシフトは休みの無い中にあっては唯一精神的に楽だったりする。終わったらバーに座ると何も言わなくてもウエイトレスが、日本なら差し詰め「シェフお疲れ様でした」といったニュアンスの言葉と共にビールなど注いでくれる。休みの日に家に帰るような気楽さだ。勿論責任範囲の違う仕事だからでもあるが、やはり長年通ってきたからでもある。今週は顔を出せないと言っていたが、先週ジェニファーに会った時21年前にチャーリーと3人で撮った写真(ギャラリー写真6参照)を自費出版で製作中のレシピ本に使いたいからオフィスのデスクに置いておいて欲しいと言われたのでそうした。私が初めて会った時、チャーリーとジェニファーはトロントに″Loons″と言う小さなレストランを経営していた。Loonsがオープンしたのは1985年で私が参加したのが1986年。つまり未だ1周年も経たない試行錯誤の連続のどたばたした時期だった。そんな事から、あの写真はパート夫妻にとっても感傷的になる要素があるようだ。当時2人には子供もいなかったが、今長男も間もなく20歳になろうかというところ。ジェニファーが妊娠したと聞いた時「男の子だったら柔道と、キックボクシングを教えてあげるよ」と約束し、1996年にこのケベックに来た頃約束を果たして、教えていたが、私の膝くらいしかなかった彼も今や2メートル近いんじゃないかと言う見上げるばかりの青年に成長した。昔「思えば遠くへ来たもんだ」とか言う歌があったが(大分昔だ)、そんな心境である。時には喧嘩もしながら、長い付き合いになったものだ。日本人同士の友人でも20年以上の付き合いと言うのは私の場合あまりない。どんなレシピ本が出来るのか楽しみだ。因みに21年前も今もチャーリーのスペシャリティは「鴨のコンフィ、ジャガイモのロシティとほうれん草添え」である。作り続けてこそスペシャリティと呼べるのだろう。
43.取材
(7月31日更新)
誕生日である。今年もこの日がやって来たかと言う感じだ。昨日は休みで久しぶりにゆっくり休んだ。ル・フジェールのチャーリーとジェニファーがアパートにプレゼントとカードを持って訪ねて来てくれた。今日は無論仕事だが、過去3年の誕生日の様に最多忙日と言う事は無かった。3年前の誕生日はガテノー市の花火大会会場のケータリングを請負い7月31日はその初日で早朝から16〜17時間は働いただろうか。何しろ500人規模の大規模なケータリングであった。2年前も同花火大会の2日目、同規模のケータリングであった。去年は既にこのウエイクフィールドに来ていたが、やはりシェフ・ソーシェとして調理場を駆け回っていた。1年前の
「エッセイ13.料理人の誕生日」を参照していただければ、去年の様子は伺えると思う。今年は調理場や、レストラン関係のみならず、ホテルの様々なセクション、幹部社員から、ハウスキーパーの人達やメンテナンス、フロントまであちこちからわざわざカードを持っておめでとうと云いに来てくれ、かえって仕事であった為に賑やかになった感じである。
先月のエッセイの最後で日加タイムスの記事の感想を書かせてもらい、一応記事の引用に関する許可を頂く為に日加タイムス編集部さんに連絡を入れたら、すぐに色本編集長自ら返事のメールが来たので、てっきりクレームが付いてしまったのかと思ったが、私を取材したいとの事であった。その後何度かメール、電話のやり取りが有り、日加タイムスの夏休み1週間の期間中を利用して色本編集長と副編集長でもある奥様が直接いらっしゃると言う事になり、8月1日と決まった。つまり明日だった訳だが、奥様の体調が優れないとの事で今回はキャンセル。勿論夏休み期間でも無ければ編集長と副編集長が2人でこんな田舎まで来るのは無理があるだろう。日を改めてリポーターの方を派遣するかどうか方法を検討するとの事である。色本さんと言えば、トロント、カナダの日系人社会では有名な方でもあり、是非お会いしてみたかったが、その点はいささか残念だ。色本さんのような方が来れば、記事にならなくても口コミで日本人社会に「ル・ムーラン・ウエイクフィールド」の名前が浸透してくれるのではないかという期待もあった。周りに日本人がいない環境だし、日本人のお客さんが来てくれるのはやはり嬉しい。大して大きくないオーベルジュとは言え夏の間はアルバイトも含め100人近いスタッフがいるのに、有色人種は私一人という超マイノリティなのだから。お昼を召し上がると言う話だったので、取材用に昼のアラカルトメニューの説明付き日本語版を作ったので、「ケベック州の厨房から」のページに転写しておく事にした。このページを更新するのはえらく久しぶりである。フランス料理のオーベルジュとは言え、昼のメニューはかなり国際色豊かなカジュアルメニューである事がお分かりいただけると思う。