essai 2012年12月
285.時代
(12月8日更新)
例年通り12月は1日からクリスマスパーティが入っているが、クリスマスパーティ自体は少ない。まあそれでも12月前半はばたばたしている。半ば過ぎてクリスマス本番が近づくとどんどん暇になって行くのも毎年の事だが、特に今年の年末は暇そうだ。
日本では正月に帰省せず、海外旅行などに行くケースが多く特に今度の正月は多いらしい。不況何処吹く風という訳でもないのだろうが、その不況を後押しする円高を逆にメリットにするには海外旅行が一番と言う事なのかもしれない。
しかしこちらでクリスマスが近づく程暇になるのは、まだまだカナダ人はクリスマスにはちゃんと帰省する習慣が消えていないと言うところだろうか。もっとも日本では核家族化が進んでも住宅事情もあって、学校を卒業した子供が直ちに独立する事はそう多くないから、特に都会に家族が住んでいればわざわざ帰省するまでも無いという場合も多々あるのだろう。私は学校卒業と同時に海外に出たが、そうでなければ今も独身なのだから両親と東京に住んでいたかもしれない。
1月は第2週が毎年恒例の博物館メンテナンスで休館するから、それに付随させて去年の様に長めの休暇を取って帰国帰省する腹積もりでいるが、いくら1月は暇とは言え、この間に大きな宴会でも入ればそうもいかなくなるので今の時点では分からない。それにしても逆に日本の一地方にでも住んでいれば年に一度の休暇(今年は例のケベック州日本人協会イベントの為9月に3日取ったが通例は)とは言え、こんな長期の帰省は困難だろう。そう考えると面白いものだ。インターネットによる情報も含め、世界が狭くなってきている有り難さだ。私が生まれた頃・・・或いはそれ以前に例えばフランス修行に出た先輩方はこんな気楽に毎年帰国できる時代が想像できなかったのではないだろうか。
昔の方が良かった事も多かろうが、こんな風に良い意味の変化も見逃せない。私が初めてカナダに来たのは1986年だが、少なくともインターネットやら日本のテレビ(こちらは今もまだ無縁だが)が気軽に視れる時代まではさすがに予見できなかった。雑音で殆ど聞き取れないNHKの短波ラジオが週に1度放送されていたが、殆どどころか都会と言えど全く聞こえない事も多かったし、当時もレストランで深夜まで働く事が多く、放送時間に部屋にいること自体少なかったので数回しかちゃんと聞いた覚えはないが、かすかに聞こえる日本語に感動した・・・そんな時代もあったのだ。もっとも情報源が英語もしくはフランス語しか無かったからこそ否応なしに多少は勉強したという事はある。Amazonに頼んだら3日で本を送ってきてくれるとか、ましてや電子書籍なんて発想そのものが無かったのだから、本だって英語かフランス語のものしか手に入らなかった訳だ。日本語の出版物としては週に一度(と言ってもこれもたまにしか手に入らなかったが)発行される日加タイムスが唯一で、買ったら端から端まで夢中になって読んだものだった。後にこの新聞に取材を受け、カラー見開きページで掲載される栄誉が与えられるとは夢にも思わなかったが、そこが人生の面白さか。
286.フィクションの中の厨房(その2・・・の前に)
(12月30日更新)
今年も押し詰まってきたが、結局今月も2回更新に終わりそうだ。大体このサイト全体のキャパシティが限界を超え、一部の写真など大きなファイルを削ってはエッセイを更新するという騙し騙しのパターンになってから1年も2年も誤魔化しているという辺り、己のずぼらさに呆れる。少しは写真なども更新したいし、来年こそ真剣に考えたい。
このずぼらさの象徴とも言うべき話だが、ある所から「あの{フィクションの厨房}とか言うのはどうなった?」という声があって、チェックしたら、何と1年前の12月にその予告編みたいな話を書いてそれっきりになっている。我ながら酷いものだ。
そんな訳で遅ればせながら、その話題の続きを。
しかしその前に今回はこの話をしたい。と言うのは、フィクションとは異なるがこの秋あの「料理の鉄人」がアイアンシェフとして復活した件。どうもあまり視聴率は上がっていないようでネットで大分叩かれているのを見かける。年末スペシャルを明日の大晦日にやるそうだが、放送するテレビ局の社員達もやる前から視聴率は他局に惨敗と言う意見が大半を示しているという記事もみた。事実としたら情けない話だ。
10年も20年も前にやっていた当時ですら既に海外で暮らしていた私は日本帰国の際に数回視た程度でリアルタイムに人気絶頂の頃この番組を視ていた訳ではない。印象に残っているのはたまたま一時帰国した際に、個人的に色々とお世話になっていた「ル・グラン・コントワ」の菅沼シェフが鉄人陳建一に勝ったのを視る事が出来た回くらいだ。
ただこの環境にある私に言えるのは、アメリカが権利を買い取って今もフードネットワークで再放送され続けているオリジナルの「料理の鉄人」は相変わらず飲食業関係の人間にとって大人気番組であり続けているという事だ。米国版の新作の話ではない。20年も前の坂井シェフや道場シェフの映像を再放送で視ては皆感心しているのである。うちの新総料理長であるマルタンも年中「アレ キュイジーヌ!」と鹿賀丈史の真似をしているので「あなたもアイアンシェフを視るんですか?」と言わずもがなの質問をしたら「日本版だけね。アメリカ版は視るにに耐えない」との返事だった。
実際こういう番組まで同じ視聴率の基準で考えるのはどうかと思う。数字に表れた視聴率を無視しても、スポンサーが飲食関係ならまず損の無い宣伝になると思う。
そもそも最近録画が多くて従来の方法で視聴率を調べるのは無理があるとして新方式を採用するとか言うニュースも見たが、私に言わせれば、一度視聴率調査なんて止めてしまえばいいと思う。
勿論欧米でも調査会社がアンケートなどを通じて調べたり、アメリカでこの手の調査を担っているニールセン社はツイッターと提携して調査する事になったなんて話もあるが、何れにせよスポンサーはともかく視聴者までもがそんなに視聴率を気にする事はない。
日本での視聴率に関する過剰反応は日本人の弱点ともなりうる付和雷同性を助長する一番の原因になっている気がするのだ。「皆がみているから・・・」と言う奴だ。
子供の頃欲しいものをねだるのに「皆持ってるから・・・」という常套句があって私も一度母にこの台詞を言ったのを覚えている。その時母は「その台詞には弱いわね」と言って買ってくれたが、ぼそっと「でも皆て誰と誰かしら」と後で付け加えた。何げない一言だったが、何故かショックを受け、子供心に(ああ、この頼み方をしてはいけないんだな)と何だか凄く悪い事をした気分になって、それ以降2度とこの台詞は口にしなかった。そう、“皆”なんて有り得ない。絶対持っていない人間もいる番組なら視ていない人間もいる。
ちょっと話がそれるが、ミシュランのガイドブック日本進出は大成功だったと言えるだろう。日本人ほど他人の物差しに頼る民族も珍しいのだから。
せめて自分が食べるもの、飲むものくらい自分で美味しいと思うものを選びたい・・・とは大抵誰でも思う事だろう。実際仕事の合間の昼食などは殆どの人が自分の好みで選んでいるだろうと思う。
ところが、誰かとあらたまって食事に行くとなると、俄然他人の評価が気になりだすらしい。ワインとのマリアージュなどでも「この料理にこのワインを頼んだら笑われるんじゃないか」とか「このワインと料理相性良いみたいに思えるけど、誰か他の人が言い出すまでは黙っていた方が良いな」とか色々な思惑が水面下で交差して(苦笑)、挙句の果てはフランス料理は肩が凝るなんて結論に辿りついて敬遠する人まで出てくる始末で、こっちは商売上がったりだ。
この手の話はつい最近雑誌モントリオール ブレテン誌に書いたばかりだが、こういう他人の評価の最も卑近な例が視聴率問題だと言いたいのである。
「アイアンシェフ」も次回紹介するフィクションの料理ドラマも、人が何と言おうと自分が興味があれば視て欲しい。いや、テレビ番組くらい自分で選んでいる人が大半だろうとは思う。何よりテレビ関係者こそ意識を変えてもらいたいのだが、それは無理か・・・・。