エッセイ2009年6月

128.今月は多忙なれど。

(6月15日更新)

6月になって全く更新しないままついに半ばを過ぎてしまった。この6月は今年に入って初めて忙しさを実感する月だが、それでもア・ラ・カルトのお客様はまだまだ少ない。団体が毎日最低2件以上は入っているので今月今に至るまで1日もブッフェをやっていない日は無い。あれほどアイテムを減らし、同時に値上げまでしながら、20〜30名程度のブッフェでは儲けが出ないから一般のお客様にもブッフェを勧めようとパディが言い出したので尚更ア・ラ・カルトが伸びないのだ。否以前アイテムがもっと沢山あった時に「20名なら利益が出る」それから暫くして「20名では駄目だが30名なら大丈夫だ」となって、ついには「どうやってもブッフェでは利益が出ない。アイテムを減らして、ブッフェは企業会員限定としよう」と変わって今に至っているのだ。つまりその時点でも大分アイテムは減っていた訳だが、今回更に減らし、同時に値上げまでしながら、結局人数も40〜50名以上は売らなければ利益が出ないと言うのだから計算も計算だが、お客様が離れていくのは単に不況の所為ばかりとは言えないのではないか。
ちょっと過去のブッフェメニュー「5.ある日のブッフェメニュー」を見ていただくとその差が歴然だが、スープはそのまま(と言っても先月書いたように残りものの野菜と魚をスープにしたりして私も工夫しているが)ながら、6種類のサラダが3種類(パディは2種類を主張したが)に、その下のサンドウイッチ、ピザなどはとっくの昔に廃止、冷製は生野菜の盛り合わせを除いて全て廃止。結局そのままなのは温製の肉料理、魚料理、Feculent(同じページの「2.皿の構成を参照してください)と野菜の4品くらいだが、これも素材は鳥の胸肉を腿に変えたり、ミンチにした肉で作ったミートローフなど、この辺は殆ど私のアイデアでコストを下げている。唯一豚肉は一度は当時の担当者があまりにしつこいので手を切っていたモントリオールの食肉業者と再契約したので、私の好きなナガノ豚が復活した事くらいだ。これは値段もリーゾナブルで、レアで食べても安心の美味しさ。お客様のイメージも良いので、私はあえてメニューにただ豚と書かずにナガノ豚と書いて出す事にした。しかし比べれば歴然、半分も減った品数で料金は値上げと言うのでは、企業会員もだが、ここ2〜3年皆で頑張って増やしてきた地元のお客様も足が遠のくのではなかろうか。

129. やはり心機一転を図り・・・

(6月24日更新)

相変わらず更新が滞っているうちに今月も後僅かだ。実際今月は忙しかったが、今週の金曜、つまりあさってにはついに団体が途切れ、ブッフェ無しア・ラ・カルトのみの日となる。翌土曜日もそうだ。間もなく学校が夏休みに入ると企業会員は一挙に減り、ツーリスト頼みとなるが、これが今年は厳しいだろう。何故なら前にもちょっと書いたが、企業会員ですら泊まりが極度に減り、数日会議をやっても昼食(時には早朝来て朝食)を摂るだけで、毎日オタワに帰って行く。ツーリストもなまじ機関車が復活した為、活性化どころか日帰りに拍車がかかった感じだ。機関車は未だに町に泊まる事を想定したパッケージは組まず、ほんの数時間の滞在で往復する切符が基本なのだ。
しかし、私はこの所マメに動き回っていたので、個人的には尚更忙しかった。色々今後のオプションを検討したが、結局ジョルジュの所で宴会担当スーシェフのポジションを引き受ける事にした。条件もまあ悪くない。
そんな訳で先週は休みの日にジョルジュに会いに行ったり、週末の夜は早速宴会を手伝いに行ったりしていた。
土曜などは早朝からル・ムーランで仕事をして夕方から向こうに手伝いに行き、翌朝はル・ムーランで父の日の多忙なブランチ、その後一つ夜のブッフェを準備してから、これはもっと個人的な用だが、フジェールのチャーリーとジェニファーの結婚25周年のサプライズパーティに参加した。
25周年・・・私が知り合った頃は丁度2周年の頃だったから、あれから23年経ったと言う事か。日本人でもこんな長い付き合いの友人はそういない。
新しい仕事は中々興味深そうだし、何しろ滅茶苦茶忙しいのが私向きと思う。実際にはル・ムーランに私の後釜を探す余裕を与えておきたかったので1ヵ月後(話が決まったのが19日だから7月の20日まで)の退職とした。つまり通常の倍は時間を取ったので未だ先の事になる。とは言え、身体が開いた時は手伝いに行く二重生活がそれまで続く事になるだろう。
仕事の内容等はおいおい書いていく事になるだろうが、取りあえずはそう言う事だ。

130.Bonne chance!

(6月30日更新)

元々多忙な月なのに時間が空けば夜は博物館に手伝いに行ったりもしているので相当忙しい。新しい仕事について書くことは尽きないが、それは来月に譲るとして、現在の職場について書いておこう。
パディが去った後数ヶ月はロメインを支えるつもりであったが、結局私の方がパディより先に辞任する事になった訳だ。
以前書いた様にロメインは将来大物シェフになると思う。
しかし今の時点で総料理長が大過無く勤まるかと言うと、正直疑問に思わないでは無い。技術的な事だけ言っても下積みが短かった弊害として基本を飛ばしてしまっている所がある。ついこの間まで日本人の私に「ソース リヨネーズって何ですか?」とか聞いていたくらいで、今でも似たような事がある。勿論他の子達に比べれば、知識も十分あるが、要は低いレベルの中にあるから突出するだけの事である。私ごときがこんな偉そうな事を書いていられるのも、そんなレベルの中なればこそかもしれないが。
料理に関して言えば、しかしパディよりロメインの方が頼りになる筈だし、それ故にオーナーも彼で行く事にしたのだろう。パディは「もう料理するのが嫌になった・・」云々と言って辞める訳だが、再三書いている様に元々彼は大して自分でメニューを考えたり、作ったりする事は殆ど無かった。メニューに関しては今までもロメインと私で作ってきたと言って良いだろう。昼間のメニューは私を中心に夜のメニューはロメインを中心にしながら、お互いの意見(無論パディの意見も)を聞きながら決定すると言う方法だった。自分でメニューも作らず、料理も作らずと言うシェフが他の人達から見て如何写るかは知らないが、私やロメインにとってはそういう総料理長で有り難かったとも言える。
実はこの昼のメニュー作りで、私がやってきた挑戦の一つは、しかし誰も受け継ぐ事は無いだろう。他に出来る人がいないのではなく、他にやる人がいるとはちょっと思えないのだ。
それはこう言う事だ。オートバイの耐久レースは2人1組で何時間も走るが、一つの作戦として1人が、がんがん飛ばし、もう1人がマシンに負担をかけずに順位を落とさない事を考えると言う方法がある。私の挑戦とはこれだった。
夜のメニューでロメインが高級食材を使って自由にやれるように、昼のメニューは品質を落とさず、お客様には十分満足して貰える様に努力しながら、安価な食材や、夜の余り物の素材をうまく活用するメニューを考え続けていた。ア・ラ・カルトでもそうだが、特にブッフェではそれが顕著だった。そして、無論そんな事はおくびにも出さずにやってきた。
誰が私の後を継いでも、自分のメニューを主張しようと、寧ろ夜に対抗する様なメニューを考える可能性が強いが、それより寧ろパディと違って彼は自分のアイデアに満ちているから、昼のメニューも全部自分で考えようとするかもしれない。何れにしても結果は同じ事で、昼のメニューで予算調整を図ろうと言う方向にはまず行かないだろうと思う。
ほぼタイミングを同じくして、パディが去れば、結局パディの計算が優れていたと前総料理長への評価が高まるかもしれないが、実態は存外そんな所にある。
とは言え、ロメインには才能がある。何とか起死回生を図って欲しいと祈っている。正直私も投げ出したような現状で、あえて彼は挑戦しようとしているのだから、運が彼の味方をしてくれれば良いと思っている。急激な景気の回復は無理でも、例えば機関車が泊まりツアーを企画するとか、ウエイクフィールドに泊りがけで人が遊びに来る様な状況が出てくれば大いに勝算がある筈だ。人が来れば彼の料理で十分魅了出来るだろう。
Bonne chance Romain!(ロメインよ成功を!)と今から言っておきたい。