Essay2007年9月


46.取材その2.パティシェ時代の思い出
(9月1日更新)
今日、日加タイムスの色本編集長御夫妻(奥様は副編集長)がトロントから来られ、取材を受けた。今週末は月曜日が労働者の日で3連休になる為、通常営業も忙しかったし、最初は2時ごろと言うお話が3時と言うお約束に変わり、正直助かった。2時から3時までは未だ超多忙で、前から皆に言ってあると言ってもちょっと抜け出し辛い状況だったからだ。夏の間はほぼ毎週土曜日は結婚式が入っており、今日も例外では無かった事もある。前回予定がキャンセルになった8月1日の場合は色本編集長の休暇期間であった為、平日と言う約束で楽だったのだが、今回はこの労働者の日の3連休を利用して取材旅行にわざわざ来られるという事なのだからこれはやむを得まい。せっかくだから明日は例のガテノー〜ウエイクフィールド間の観光蒸気機関車も取材されるとの事、この蒸気機関車は私の記憶する限り日本語のメディアに取り上げられた事が殆ど無いので読者として楽しみにしている。何れにせよ結局ローカルリポーターを派遣する代わりに御本人達が来てくださったのは大変光栄である。一応こちらサイドで打ち合わせをしてあった通り(取材が来ると言うのでわざわざ会議を行ったのだ)、館内を御案内した後、インタビューを受け、その後でお食事をしていただいた。今日は結婚式があると言う話から結婚式に関するエピソードは無いかと言う御質問も受けたのだが、考えてもあまり浮かんでこない。そこでLes Fougères(フジェール)時代に新婦さんが日本人と言うカップルが結婚式を挙げたとき、参列者全員のデザート一つ一つの上にチョコレートを溶かして作った“寿”と言う飾りを作った話をし、パティシェ時代の話を少しさせていただいた。全くお菓子の勉強などした事が無いのに96年にパティシェ部門のシェフに抜擢され、翌97年にカナダの全国紙“グローブ アンド メール”の全カナダレストラン ベスト10でフジェールが2位に選ばれ、「ええ?俺のデザートで良かったの・・・」とびっくりした話などもした。
その当時フジェールのスーシェフであったマリオ・ボワイエが最近併設されている店の食品の製造や、人の居ない時のレストランの手伝いなどの為、最近フジェールに復帰した。マリオは最近まで別のレストランの料理長をしていたが、フジェールを辞めた直後はクッキーのお店を作り、一時はメディアにも盛んに取り上げられたが、共同経営者とそりが合わず、辞めてしまったという経歴を持っている。その為当然デザートも相当作れるので、お店のデザートも作る。実はこのエッセイ、また2日がかりで書いているので、今日(9月2日)はフジェールに行き、ソーシェをやっていたが、そのマリオが「Naki、フジェールの定番チョコレートタルトってどういうルセット(レシピ)だったっけ?」などと聞いてきた。当時は私がデザートを作っている間、マリオがソーシェをやっていたのだから、逆なのは面白い。それはともかく「俺だって5年くらい作ってないぜ」(昔なじみのマリオと話すと、こんな口調になってしまう)と答えた。しかし地下のパティスリーに下りていってタルト型を見たら偉い物で、ルセットが蘇って来た。チョコレート タルトは定番と言うだけあって毎日作っていたデザートの一つだったのだ。細かい割合は思い出せなくとも、手順は勝手に手が作るほど身についているものだ。
実際問題ル・ムーランに来てからのエピソードと言うのは、結婚式に限らずそれ程思い浮かばない。同じように2年間であってもカフェ・アンリーブルジェ時代は高級フランス料理のケータリングを中心にやっていたのだからいろいろ面白い事もあったし、やはり10年以上関わってきたフジェールはお客さんだけでも国家元首からハリウッドのスターなど有名人にも事欠かない。
47.労働者の日
(9月3日更新)
毎年「労働者の日」はル・フジェールのスタッフ パーティの日と決まっているが、ここ4年ほどは他店での仕事が忙しく参加できずにいた。今年は久しぶりに月曜が休みとなり、出席できた。5年くらい前からわりと普通に飲んだり、食べたりと言うパーティとなったが、それ以前は毎年趣向を凝らし、船を借り切ってガテノー川の無人島へ行ってバーベキューをしたり、ガテノー公園内にある冬はスキー場となる丘の上に特別に動かしてもらったリフトで上がってパーティをしたりと言う派手な物ばかりだった。その頃は冬にもパーティを行い、馬の引くソリに皆で乗って延延と走るなんてこともあった。スタッフ パーティだけが楽しみで悪条件で働くなんていう従業員も何人もいたものだ。今の私としては古い友人たちと顔を合わせるのが楽しみで行く訳だ。今はメンバーもすっかり変わったが、スタッフパーティとなると昔のメンバーも顔を出したりするし、初代メートル・ドテルのリン・ボワイエやその弟で初代スーシェフのマリオが復帰した事は前回も書いた通り。女性ソムリエとしては世界一となったヴェロニクや、現在ヴェロニクの後を受けてル・フジェールの支配人をしているカトリーナとも久しぶりに会った。カトリーナは私の後任パティシェとしてやはり現場から入ったのだが、今は支配人に専念している。尤も彼女はパティシェとしてもカナダ全国大会で3位になった事もある実力派だった。そんな人に当時独学でデザートを覚えた私が指導していたりしていたのだからよく考えると滅茶苦茶な話ではある。古い人ばかりでは無く、現在のスーシェフであるジンとも話が出来た。向こうもそうだったようだが彼とも前から話をしてみたかったのだ。彼は奥さんはカナダ人だが、本人は北京出身の中国人で、中国料理界で数々の賞を受賞してからイギリスの料理学校に入りなおして欧米料理を学びなおしたと言う異色の人物、アイスカービングの名人でもある。それにしても、チェルシーのケベック料理店に中国人のスーシェフ、ウエイクフィールドのフランス料理オーベルジュに日本人のスーシェフ・・・ようやくこんな時代になったということか。
48.また紅葉の季節、ブッフェのメニュー
(9月20日更新)
毎年、秋と春に起こる現象だが、この時季はその日その日によって気温が大きく異なる。夏のような日の翌日冬の様になり、又その翌日夏並に気温が上昇すると言った具合だ。これを何回も繰り返し、春から夏になり、秋から冬になる訳だが、秋の場合はこの急激な気温変化により、世界屈指の紅葉が出現するのである。木々によって、あるいは同じ種類の木でも微妙な場所の変化によって色が変わる速度が異なり、毎日違う顔を見せてくれる。つまり一口に紅葉と言っても、赤や黄色の他にオレンジ、ピンク、その他何十種類もの色が渾然一体となり、昨日と今日とではまるで違う。この点が日本の春の桜などと大きく異なる魅力だ。この時季カナダ東部を訪れる方は余程長い滞在でなければ全部の変化を見れないのだから、最高のものが見られるかどうかは運に左右される所があるのは否定できない。しかし一端紅葉が始まった後であれば、どの段階を見ても美しい事に変わりは無い。雨が降っていたとしても残念などと思わないで欲しい。そんな日は又一段と幻想的な風景が見れたりするのだ。
ところで夏の間は毎週末に結婚式を入れる以外、平日は観光のお客様に部屋もレストランも完全開放しているが、9月(日本で言えば4月に当たる新年度の初め)になると企業会員のお客様にシフトさせると言うのがジョルジュ・ローリエ前シェフが作った戦略で、今や完全に機能している。9月最初の1週間のみはわりと暇であったが2週目からがらっと忙しくなり、今週も来週も月曜から金曜まで毎日企業会員のグループが会議、宿泊、朝、昼、夕食(お茶の時間も)でびっしり予約が詰まっている状態である。多い日は4〜5団体も大して大きくないホテルにひしめいている状況だ。当然ア・ラ・カルト メニューに加え、月曜から金曜(時には土曜も)まで毎日ブッフェ(バイキング形式)を提供する事になる。勿論この日替わりブッフェ メニューは以前にも書いたように毎日私が作っているわけだが、ここで一つその具体的な例を書いておこう。例によって「ケベック州の厨房から」(5.ある日のブッフェメニュー)にとんでいただきたい。こういう時に使わないとあのコーナーは意味が無いので。これは「ある日」実際に出したメニューである。企業会員の中には1〜2ヶ月に1回、それも4連泊くらいするお客様もいらっしゃるので、毎日メニューを変えるのは当然、前回見えたときのメニューも全て会社のパソコンの主に私専用のファイルに保存しておいて、変化をつけている。
49.世界の厨房から
(9月30日更新)
2〜3日前に日加タイムスの副編集長である色本のり子さんからメールを頂いた。実は御主人である色本信夫編集長とお二人で取材に見えた時、私にメッセージが届かないと言うちょっとしたハプニングがあった。ホテルという性格上非常にまずいので、マネージャーの一人として、注意しておきますと申し上げたのだが、その時の事に触れられ、「カナダ人の事だから大目に見てあげてください」と書かれてあった。色本夫妻は私よりはるかにカナダ在住が長いので、こういう事に慣れっこになっているのだろう。どんな国にも当然国民性というものが有るから、こういう焦燥感を感じる事は多々あるものだ。しかし、今までの経験から調理場のような職人社会に入ると、妙にグローバルスタンダードというか、何処でも共通するところが多いのが面白い。国民性より、圧倒的に個人の性格の方が差がつき易いのである。いい加減な奴は何人に関わらずいるし、その反対に融通が利かないくらいまじめな人も何処にでもいる。私が在住してきた国は4カ国に過ぎないのに、大袈裟な事を言うと思われるかもしれない。確かに自分が住んだ国、働いた国はその4つだけだが、実に沢山の国の人と一緒に仕事をしてきているので、その事を言っているのだ。日本でアルバイトで調理場に入った10台の時に既に外国ー当時は主にアジア系だったがーの人達と仕事をしていた。この項を書くにあたり、国連加盟国一覧表を見ながら数えてみたが、実に今まで日本を含めると37カ国出身の人達と調理場で共に働いて来た計算になる。人種の坩堝と言われるカナダなどでは、○○系カナダ人と言うのが実に豊富だが、そういうのは計算に入れていない。あくまでその人自身の出身国と言う事だ。また直接接触は無いが、同じ職場に○○人も居た...などというのも勿論計算外だ。何も記録を作ろうというのではないのだから、そんな無意味な数字は本稿の主旨とは関係ない。よく欧米人は謝らないとか、先輩も後輩も無いとか十把一絡げに論評する人が居るが少なくとも調理場のような場所で、共に切磋琢磨して働いていると結局は個々の性格が物を言うと思う。
私は毎朝7時に出勤しているが、朝食係は5時に出勤している。私が出勤すると私の立ち位置にいつも私が自分でセットする通りにまな板、その横に包丁を置く為のタオル、台不帰などが寸分たがわず置かれてあり、私が朝一で飲むアールグレイの紅茶が専用のカップに湯気を立てている。実は朝食係の彼女は今度全く別の仕事に転職する事になり、後半月もすると辞めることになった。それは残念だが、いつも私の一挙手一投足に注目していて、きっちりその仕事を盗んでいる。そういう風だから前記のような事が出来るわけだ。いつも「私はNakiサン(サンが敬称であることを聞いてちゃんとさん付けで呼ぶ))のやり方を全部真似します」とか宣言して、何か指示すると一言一句聞き逃すまいと集中して聞いているし、異常に私に気を使う。逆に言えば、封建的で悪名高かった日本の調理場だって今時は先輩を蔑ろにする若者はいくらでもいるだろう。誰かに言われるからでは無く、「この人についていけば自分のプラスになる」と思えば自然に謙虚になるものだし、逆に「何だこの人」となめられてしまえば、態度に出るのではないだろうか。今回は一つの例を挙げたに過ぎないが、全ての人に当てはまる事。この子は仕事が雑だから、これを任せたらこんな事になりそうだなと思うと、ほぼ間違いなくそうなるし、この子にはもっと色々任せても大丈夫だと感じて実際そうすれば期待に答えてくれる。出身国も、男も女も、年齢も関係無い。もっとも受け入れ側の事情はカナダと日本では異なるかもしれない。30歳、まして40歳を過ぎて、初心者みたいな仕事をしていたら、日本ではこの業界で仕事を得る事は難しいだろう。経験豊かで腕があっても年齢制限で切られるのが日本社会の特色のひとつ。国籍や男女でも未だ未だ完全平等には遠い。社会の懐の深さではカナダにはかなわない。