エッセイ15

39.調理場の人間模様

(6月15日更新)

先月と打って変わって今月の初更新は大幅に遅れてしまった。6月にはウエイクフィールドは最大のシーズンに達し、ハルとウエイクフィールドを結ぶ蒸気機関車が走り始めたり、カントリーミュージックのフェスティバルがあったりといかにも田舎観光地らしい(笑)イベントが目白押しだ。
パディは休暇から帰ってきたが、一向に私の仕事は楽にならない。ジョルジュが総料理長であった時は休暇から帰ってくるとほっと一息つけたものだが・・・などと部下たちが聞いたらまたぞろ「パディは仕事してない」説を助長しかねないので言えたものではないが、まあ日本語が読める部下は一人もいないから心配は無い。勿論私は彼が仕事をしてないなんて全く考えていない。ただ役割分担で、私の仕事は私の仕事として彼が休む休まないに関わらずあるというだけの事だ。パディは「本当にプレッシャーと戦ってよくやるなあ」と感心するし、準スーシェフのロメインも「自分があの年齢の頃と比べて月とすっぽんくらい頑張ってるなあ」と私は思うのだが、二人とも部下たちには人気が無い。私など本当にリーダーシップに欠ける人間だが、先の二人が人気が無いので相対的に部下たちには頼られ、「Chef Laurierが去った今NakiがいなくなってPaddyやRomainの直属になったら、悪いけど辞めますよ」などとはっきり口に出して私に言う部下もいるくらいだ。仕舞いには第二メートルドテルのミッシェルまでが真顔で「正直私としてはNakiに取締役総料理長を勤めていただきたいですな。選挙で決めるなら私の一票を投じます」などと言い出す始末。「いくら冗談でも貴方までそんな事を言わないでくださいよ」と苦笑せざるを得なかった。ミッシェルはいかにもパリの三ツ星レストランのメートルか、はたまた五つ星ホテルのコンシェルジュかという雰囲気の年配のギャルソンで、勿論外見だけでなく仕事も出来る人。本来なら彼こそ第一メートルドテルになっている筈だが、昼間しか働かないせいか、それこそ本人にその気が無いのか、長年第二のまま。ジョルジュが去って以降はいつも私をシェフと呼び、一度などパディがいるのに私に「シェフ」と呼びかけて、てっきり自分が呼ばれたと思ったパディが流石にむっとした場面もあった程だ。彼までがそんな事を言うから案の定、他の子達は「そうですよ。皆でストライキしてNakiに総料理長になってもらいましょう」などと冗談にも恐ろしい事を言い出す。しかしパディも私も元々ジョルジュ・ローリエ氏の弟子。何故ジョルジュが後任を私ではなくパディに託したかを考えれば自ずと私がその役を引き受けるのに無理があることが知れる。この事は前にも書いたが、もし私が引き継いでいればジョルジュの路線をそのまま継承するだけで、ジョルジュがオーナーと意見が合わず辞めたという事は料理に関する考え方が同じな私もその道をたどる事になろう。これも前に書いたが私は経営者には媚びれない性格で、こういうのも部下には受けるが、当然オーナー達からは歓迎されない。実際ジョルジュは多くの名シェフがそうであるように、人の能力、何が出来て何が出来ないかを見抜く事にも長けていた。初めてカフェ・アンリーブルジェで面接を受けた時、ロベール・ブーラッサ、ジョルジュ・ローリエと言うケベック州ウタウエ地方を代表する二人のグラン・シェフとの三者面談という緊張の場面であったがブーラッサ氏が終始愛想が良かったのに、ジョルジュはぎろっと睨むような視線で「君は宴会料理の経験はどの位あるんだ」とだけ聞き、勿論ゼロではないけれど、レストランのアラカルト料理の方を中心にやってきた私は正直にそう答え、これでは採用されないかも(宴会、出張料理長のポジションだったので)と思ったものだ。実はこの時老獪なブーラッサ氏は私と共にもう一人このポジションの候補者を雇い、2週間くらい様子を見て、どちらかをこの部門のシェフ、残った方を補佐とする人事を考えていたのだった。この時の私のライバルは今はオタワのフランス料理店の料理長をしているが、かの有名なパリの五つ星ホテル、ジョルジュ・サンク・パリ等錚々たる名店で修行を積んできた男で、宴会料理の経験も十分あり、火の通し、盛り付けなど、流石と思わされる物が有り、これは負けたなと思った。この当時副総料理長だったのがパディで、パディなどは明らかに彼、アレックスの方を買っていて、私など歯牙にもかけないという感じだった。ところが総料理長のジョルジュが下した答えは「Nakiにやってもらいたい」であった。和食やパティシェなど特異な経歴を経て来た私のやり方はしばしばフランス料理のセオリーから外れたが、ジョルジュは「これだ。これが私の求める物だ」と支持してくれ、他の子が「しかしシェフ、今までのやり方と全然違ってしまいますが・・・」と言うのにも「勿論だ。今までのやり方がpas bon(良くなかった)だったのだ。これからはこれで行く」と言ってくれた。本当のところ自分でもあまり自信が無かったりしたのだが、そんな時も「Naki、君は自分の力を知らない。君の中からはもっといろいろな物が出てくるよ」と言ってくれ、今日の私がある。今ではその時歯牙にもかけなかった筈のパディ(パディはその後半年ほどでカフェ・アンリー・ブルジェは辞めたので、あそこではそれ程長く一緒に仕事をした訳ではない)に頼られるようになったのだから人生は面白い。それにしても時、場所に関わらず人間関係は難しい。
40.ケベックフランス料理界の日本人達
(6月30日更新)
どうもこの所のエッセイは単なる日記じみて、しかも何となくネガティブな方向に走りすぎていた嫌いがあるので、今回はちょっと職場から離れた話題を書いてみたい。否、別に職場の話をするとネガティブになると言う訳ではないのだが(笑)。
私は「日加タイムス」と言う週刊の日系新聞を購読しているのだが、カナダで活躍する日本人の記事が大抵毎週載っていて、飲食業界などは特に多く、注目している。ここではケベック州にしぼってちょっと紹介させていただくが、いくら個人サイトとは言え、勝手に記事を引用する訳にはいかないので一読者としての感想のような形になる。まあ前紙には一言知らせておくつもりではあるが。
やはりフランス料理関係が一番興味を引かれるところである。最初に紹介するのは″Ariel Restaurant゛。この記事は2006年7月28日に掲載された物であるから今もお二人がやっておられるかどうか確認した訳では無いが渡辺正幸シェフと、岡崎泰久シェフという二人の日本人シェフが活躍されていると言う。写真を見て、記事を読んだだけでも是非モントリオールに行ったら食べに行きたくなるようなおいしそうな料理だ。渡辺シェフは茨城県出身で和食の経験もあるそうで、タヒチに向かうクルーズ船の料理人として海外に踏み出し、オーストラリア、シンガポール、沖縄などを経てモントリオールに落ち着いたと言う。一方の岡崎シェフは兵庫県出身の横浜育ちで、あの熊谷喜八シェフの店で無国籍料理を作っていた事もあるそうだ。
後はいずれも最近の記事、6月8日号、6月15日号、6月22日号と偶然ながら連続している。6月8日号の記事は゛Le Club Chasse et Peche"と言うレストランでパティシェをしていると言う脇雅美さんという方。私自身パティシェの経験も含め、料理は独学・・・というか現場で覚えてきた物ばかりで調理師学校は出ていないが、彼女もモントリオールに住みだしてから現場でお菓子作りの技術を身につけたとか。6月15日の記事は以前も紹介した(エッセイ2007年5月゛7")鈴木喜信シェフ等がケベック市から100キロほど離れた小さいながら芸術の町として知られるSaint-Jean-Port-Joli(サンジャンポールジョリ)でこの8月に日本とケベックの素材を生かした創作料理を作る大掛かりなイベントをやると言う記事。鈴木シェフについては上記のエッセイでも紹介した通りケベック州フランス料理界の日本人シェフとしては最も有名な方だと思うが、素材へのこだわり方の強さで知られる鈴木シェフがイベントでどんな料理を作られるのか、出来れば客として行ってみたいくらいだが、こちらも最多忙期なのでそうもいかない。第一ここからだとサンジャンポールジョリへ行くよりニューヨークの方が余程近いと言う位離れている。カナダの1州で唯一のフランス語圏というと狭い範囲を想像される方もおられるかもしれないが、ケベック州は当のフランスの4倍もある巨大な州なのだから。
最後の6月22日の記事は前述の脇雅美さんと同様モントリオールのレストランでパティシェをしていると言う山浦綾さん。レストランはローリエ通りの"JUNI"という店で、彼女は武蔵野調理師学校を出て東京の老舗ホテルやフランス料理レストランで経験を積んだ後カナダに来たと言うから前述の脇さんとは大分異なるが、脇さんも山浦さんも最初はワーキングホリデーでカナダに入ったらしい。実は斯く言う私も初めてカナダに来た時はワーキングホリデーヴィザだったのだが、何しろ日本とカナダの間でワーキングホリデーが開始された最初の年。つまりワーキングホリデー第一号の1986年の話だ。その時働いた店のオーナー夫妻が"Les fougères"のパート夫妻と言う訳だが、当時は何故日本人なのに日本食レストランで働かないのかと周りからよく言われたものだった。それにしても21年も前。鈴木シェフは私より年上だが、渡辺さんも岡崎さんも脇さんも山浦さんも皆子供だったんじゃあるまいか(笑)。時の流れは恐ろしい。