Esaai 2014年2月
311.ビール祭りって・・・。
(2月2日更新)
金曜土曜はビール祭りで、夜中の2時〜3時までの仕事だったが、それが終わって今日からはまた一気に暇だ。そもそもビール祭りなんてお客様の人数こそ延べ2000人と賑わったが、主役がビールだけに、全て何処かにビールを使用した(デザートのチーズケーキにまで)軽いおつまみばかり、私の担当は生地にビールを混ぜたワッフルを薄く焼いてアイスクリームコーン状に巻いたものの中に簡単なソースを絡めた鶏の唐揚げを入れて出すだけのもの。前日までの準備は殆どひたすらワッフルを焼き続けるだけだった。何しろ2000個準備しなければならなかったので。とても料理とは呼べないおつまみだ。最近こんな仕事も増えた。しかもこれはお客様が個々のコーナーに行って買い求める出店の様な形式で大広間のあちこちに分散しての販売。2000人来たからと言って2000個売れる筈もない。気に入って3つも食べて下さった方もいらっしゃったが(決して安くもないのに)、1000個以上余って廃棄する羽目に。何たる無駄。そもそも今回コーンに鶏を入れてお客様に店頭販売するのはウエイトレスの女の子達。各ブースに1人ずつシェフが入って料理を仕上げる契約だが、仕上げると言ったって大広間で唐揚げを揚げれる訳ないので、定期的に調理場で揚げた鶏を温蔵庫に入れておいて、ソースを絡めて彼女達に委託するだけ。午後5時から午前2時までの営業で行列が出来る忙しさなどほぼ皆無だったのだから、せいぜい100個〜200個くらい予め作っておいて後は現場で焼いた方がお客様もワッフルを焼いて丸めている過程が見れて、出来たて感を味わえたのではないだろうか。
312.何故海外に・・
(2月12日更新)
初めてカナダに来た時の話は最近書いたが、そもそも何故私は外国に住む様になったのか。勿論これに関しては理由が1つという事はない。両親共昭和一桁生まれとしては珍しく2人共豊富な海外経験があったことなどもその1つ。父はドキュメンタリー映画が専門だったから海外ロケなども多かった。母が初めて海外に行ったのは10代の事だというから驚く。こう書くと若い人は「えっ!驚くって?」と疑問に思うかもしれないが、当時の日本は強い海外渡航規制があった時代。海外に行けるのは業務や視察、留学など特定の認可を受けた人に限られていた。母の場合は花柳流日本舞踊の名取として文化交流大使の様な名目での海外巡業公演。ロシアを皮切りにヨーロッパを殆ど陸路で移動する様な旅だったらしい。母はロシア語を話したりもした。この影響で私の子供の頃の食事が洋風であった事も大きな理由の1つだと言えるだろう。具体的にどんなものを食べていたかについては今までにも再三書いてきたことなので触れないが、今でも私は一月以上米の飯を食べないでいても「そう言えば暫く食べていないなあ」で済んでしまう。こういう風に書くと、いかにも私の順応性が高い様に思われそうだが、あくまで欧米の食事に馴染みがあるということに過ぎない。実際私が今まで生活の拠点としてきたのはヨーロッパと北米のみで、旅行もまたこの2つの地域に限られる。国の数はかなり行っているが、欧米と一括りにされるだけあって仰天するほどの文化、食文化の差異はない。仕事柄アジアは勿論中東、アフリカなど行った事のない国々の料理も随分作ってきたが、いざこれ等の食文化の国にすっと入っていけるかは自信がない。特に意外なほど日本以外のアジア料理は毎日の様に食べていられるようになるのには時間がかかりそうな気がする。もっとも先に挙げたアフリカ料理など私が作ってきたような物は大変なご馳走であり、普段は食べる事事態ままならず苦しんでいる人々が多いことを思えば全くもって贅沢な話ではある。
ただ言えるのは人は子供の頃から馴染んできた食べ物で人生を左右されるほどの影響を受けるという事だ。これは国単位に留まらず、同じ日本国内であってさえ生まれた地域によって、時には同じ県内でも別の町に行くだけで食文化の違いを感じることもあるくらいだ。
これは私が海外に出るようになったもう1つの大きな理由にも繋がるが、私の出身である東京は言うまでもなく日本中からの移住者で出来たような町、勿論色々な地方の食文化も渾然一体となっているところがある。今ではその規模が世界にまで広がっている印象だ。
私の両親も東京生まれで、母方は江戸っ子の家系だが、父方の祖父は信州の出身である。子供の頃は父方の祖父母と一緒に暮らしていたが、祖母は早くに亡くなり祖父も信州に帰ってしまったので、長野の食文化の影響がどれほどあったのかは不明だが、やはり影響は何処かにあるだろうと思う。
もっとも江戸のほうはというとかなり昔から他の地方からの移民で構成されてきたのだからこれが東京の味と言い切れるものは逆に少ない。
先程言ったもう1つの大きな理由に繋がるというのは、食文化に限らず東京で生まれ育ったこと自体に理由があると言う事。そもそも私の生家は東京でも1.2を争う繁華街、新宿だ。それも今は家電量販店で賑わう界隈、ヨドバシカメラ本店の真裏であった。もっとも私が物心つく頃には既に引っ越していたが、それでも物心ついてから成人過ぎるまで育った町も品川の五反田、十分賑やかな所だ。小学生でも自転車に乗るようになってからは渋谷辺りまでが生活圏だった。今考えると凄いが、母方の親戚には「六本木の叔父さん」だとか「青山の叔母さん」だとか錚々たる都会の中心に陣取っていた。もっとも私から見れば大叔父、大叔母だからほとんど記憶にない。今も多少付き合いがあるのは日本橋でトンカツ屋を営む母の従姉妹くらいだ。と言うのも母は子供の頃妹を亡くして他に兄弟も無い為。日本橋の叔母さんは母と父親同士が兄弟で、2人とも父親似である為、確かに叔母さんと呼んで違和感がないくらいには母に似ている。
いつも通り話があっちこっちに飛ぶが、要するに私からすると日本国内に郷里と呼べる場所を特定し辛いのだ。隣の芝生と言われるが、地方に住んでいる人の多くは同じ県内でもより都会に惹かれて移り住んだり、更には東京、大阪などの大都会を目指したりするのは、ある意味当然の傾向かもしれない。しかし日本最大の都会である東京の中心で生まれ育った者が同じ様な心境になった時・・・いや実際そうだったが、その行き先はやはり外国になってしまう。私が初めてカナダに来た頃のバンクーバー、トロントは東京ほどの賑わいではなかったが、当時数度訪れたニューヨーク、或いはイギリスで住んでいた所から1時間で行けたロンドンなどに行った時は、「なるほど地方から東京に来た気分はこういうものか」と感じた。パリやローマもしかり。だからどうしたという話ではない。実際そういう気分はそれまで味わいようがなかったというだけのことだ。換言すれば未知なる都会への好奇心、これに尽きる。
313.フェイスブック
(2月28日更新)
会う度にヒューゴに誘われる(彼の最新の料理やメニューが簡単に見れるので)事もあって、今更ながらフェイスブックはやってみる事にした。ツイッターは私にとっては意味があると思えないし、ブログも自前のWebサイトがあればいらないと認識しているが、フェイスブックに関してはある程度意味があるかなと思えてきたせいもある。どうもこちらの社会では名刺代わり的使い方もされるし、Webサイトと違って、出先でも簡単に更新できる点も良い。勿論同じ業界の人などとも交流しやすくなる。
そんな訳で取り合えず自分のページとケベック州日本人協会のページと同時に作ってみた。と言ってもカナダ国内でシェアするのがメインだから英語(一部フランス語)での更新になるだろうが、写真などは格段に容易く出せると思う。そもそもこのWebサイトでは容量が一杯でもう新しい写真を更新するのが困難になって久しく、写真は全く更新していなかったし。
まずはページを作っただけだからそれなりの体裁になるまでには1ヶ月くらいかかりそうではあるが。