essai 2013年11月


300.原点・・・取りあえずはパソコンの。

(11月3日更新)

 300回目のエッセイである。月に一回しか更新しなかったり、数ヶ月更新しなかったりした時期もあった事を思うと大変な数字ではないかと思う。実際7年・・・いや、8年近い歳月だ。その前に英語のホームページをこれまた7年程やっていた事を考え合わせると自分でも今更ながら驚く。元々コンピューターに詳しいとか、そういう下地があればともかく、ウインドウズ95が登場し、当時イギリスで付き合っていた女性に勧められるままに初めてパソコンデビューしたのが実情だ。今でもその時の会話くらいは思い出せる。
「私もパソコンなんて無縁だと思っていたのよ。でも今年誕生したウインドウズ95は本当に簡単なの。これなら私でも扱えるわ」「ふーん。でも君達は元々タイプライターで文章を打ち込む習慣があった訳だから、入力が速いだろ。俺はそれすら無いしな」「ぜーんぜん。私タイピングする時は両手の人差し指だけで打ち込むの。でも、うちのお母さんなんて右手の人差し指だけだから、お母さんよりは2倍速いわ」
と言う他愛無いものだった。それなら俺でもと思ったものの、すぐに自分でパソコン購入までは踏み切れず(当時凄く高価だったし)、人から借りていじってみる程度で、自分ではワープロを使ってFaxモデムという存在に初めて触れたくらいが関の山だった。結局ウインドウズ95のパソコンを購入したのは、96年にこのカナダ ケベック州に越してきてからだが、未だ相当高価で、今の基準なら話にならない様なスペックのものを大枚叩いて購入したものだった。
 早速ネットに接続するべくプロヴァイダーと契約する際には、初めての経験だったので、利用規約(勿論英語とフランス語の併記)を最初から最後までじっくり何度も読んでから「同意する」をクリックしたのでそこまでで1日使った覚えがある。勿論この工程は、今ならどんな些細なサイトと契約する際でも繰り返される事で、ざっと目を通して終わるところだが、当時は「何かとんでもない事にサインさせられるんじゃないか」と不安だったのだ。私の記憶が確かならあの頃カナダのインターネット普及率は米国を抜いて世界一だった筈で、日本よりはるかに普及していた。実際翌年東京の家に一時帰国した際にパソコン教室の勧誘をしていた人に声をかけられ「パソコンに興味はお有りですか?」「ええ、使っています」「ほう。どんな事にお使いになっていますか?ワープロとか?」「ええ、後はインターネットとか・・」と応えると「ええ!ご自分でネットに接続されたんですか!それは凄いですね」と感心された。最初は馬鹿にされているのかと思った程だが、実際その時の日本でのネット普及率はまだまだだったのだ。更に「どちらのプロヴァイダーですか?上級者教室もご案内しています」などたたみかけられ、今更カナダ在住だの何だの説明するのもはばかられ、「いや、田舎に住んでいるので通えません。友達に勧めておきましょう」などと誤魔化した。日本ではないが田舎に住んでいたのは事実だし。
 インターネットも今程情報を引き出すツールとして十分ではなく、むしろ自分が発信する方に興味を引かれ、かなり難しい作業だったが、試行錯誤して英語のホームページを立ち上げ、レシピなどを公開していた。大体が新しいもの好きな家系なので、携帯電話も周りで誰も使っていない頃にいち早く取り入れた。当時住んでいたチェルシーの田舎ではデジタルのアンテナすら立っておらず、デジタルとアナログの両方の電波が拾えるという大きさはともかく、かなり重たい電話だったし、とにかく通話エリアが限られていた。こっちの方は日本の方がかなり先行していたと思う。
 そんなこんなから十数年、日本もカナダもネット、携帯事情共今は差が無いだろう。子供でもIphoneをいじっている事情はカナダでも同じ。でも未だ不便だった時代にスタートしたから、今の便利さと、これは要らない、これは迂闊に手を出さない方が良いといった部分が見えてくる様な気はしている。
 という訳で、色んな自分の原点に遡る第一弾として、今回はパソコン等の話にしてみた。


301.またも話題の食品偽装・・でも。

(11月8日更新)

 2回連続で同じテーマにするのも面白くないので、ちょっと棚上げしておいて、近頃話題になっている事柄に目を向けてみたい。日本の飲食業界の今・・・と言えば、またかという感じの食品の産地やら表記やら食品そのものの偽装。
 ただ私がこの一連の報道で気になっているのは、それ等を十派一絡げにしている点である。門外漢の人達でもニュースを注意深く追っていれば明らかな違いに気付くだろうと思うが、この業界の人間なら一層明らかだと思う。最初の方に出てきた有名ホテル等の産地等の表記は、勿論分かっていてやるのは許されない事であろうが、日本人の心理としてブランド信仰みたいなものもあるし、○○農場原産だとか○○牛だとか○○海老だとか聞くとそのイメージだけで涎が出てくる・・・と考えてつい書いてしまうというのは人間のやりそうなミスの1つであるとは言えるだろう。先に日本人と書いて、後に人間と書いたが、確かに日本人だけではない。実は私の職場でも数年前から、地元で茸類の栽培では右に出る者がいないと言われるC氏の茸、ケベック州屈指のチーズ生産者であるF氏、フォアグラでも有名なM牧場の鴨など使ってもいない生産者の名前を表記していた。最初のほんの短い期間実際にこれ等の業者と取引があったが、その後安価なものに変えた後ずっとその名を使い続けていた訳だ。この事が問題化したり、先の生産者達からクレームがついた事はないが、ここに告白・・と言うより内部告発しておく。勿論私はずっとこれに抗議し、ついにそれ等の表記は消えたが、時間がかかった。その点はこの場を借りてお詫びする。ただ実の所私にしても全然知らない生産者の名前でも出ていれば自身が誤魔化されていた可能性さえある。事実私以外調理場でこの偽装に気付いていた者が1人もいなかったのだから情けない。チーズのF婦人が病魔に犯され、死線を彷徨って生還。そのパーティをやった懐かしい記憶が蘇る。茸のC氏が未だ試行錯誤して色々な茸を作っていた時、私自身の10代の頃栽培に携わった椎茸作りの思い出が蘇っての共感・・・M牧場で子供達に牧場の鴨を使っての料理作りに招かれたあの日。そう、この3つの生産者達は私と20年近い親交のある人ばかりだった。生産者達との距離が近く、その苦労を知っていれば、安易に名前だけ使う事の罪悪感がひしひしと感じられる筈なのだ。日本のこの問題にしてもマンモスホテルならではの弊害、個人店でこんな事があれば明らかに承知の上だろうから一層悪質だ。そんな訳でついやってしまった・・・だから許されるものではないだろうが、しかし後の方から出てきた食品そのものの偽装も十派一絡げと言うのはやはり違うと思う。一緒にすると前者の罪が一層重く報じられるのはともかく、後者の罪が前者と同程度に軽く?扱われてしまっているからだ。食品そのものの偽装、それは例えばミシュランにすら推薦された某高級旅館の牛脂注入の偽霜降り成型肉。これはもう産地がどうの生産者がどうのと言うレベルではない。明らかに1から偽者として人工的に作られたと言っても過言ではない。単にクオリティが低くて残念という話では無い。衛生面やアレルギーの本になるアレルゲンの混入など命に関わる問題なのだ。この点は流石にある程度知識が無いと読み取れないかもしれないが、牛脂注入自体は実は問題とは言い難い。フランス料理では伝統的にピケという技法があり、脂肪は勿論トリュフなどの成分を針で注入する事は日常的にやっている。問題なのは成型肉の方である。成型肉は生肉や脂身に酵素や蛋白質などを加えて人工的にくっつけたもの。これが人工的に作られたと私が言った根拠だ。私は基本理数科系が苦手だったが、農業大学の付属(隣が大学)という環境から付属農場、牧場などの設備が利用できたりしたので例えば新鮮な豚の酵素を使った実験などは普通に授業で受けた。分からないなりに酵素1つ取ってもフランス料理・・いや料理飲食全般と切っても切れない発酵を含め食品加工の無限の可能性を感じた。その意味からも必ずしも成型肉を批判している訳ではない。ただ先に挙げた衛生面での危険性、アレルギーなどの問題をきちんと整理し、必要な情報は提示すべきだと、これだけははっきり言える。何よりも問題なのは成型肉、それも本は外国産の牛肉を霜降り和牛として提供する姿勢だ。イミテーションの宝石だって買った人が納得して購入したら何の問題も無い。しかし食に関して騙してイミテーションを売ろうとするなら・・・繰り返しになるが命に関わる大問題なのだ。


302.原点・・・初めての外国暮らし(前編)

(11月15日更新)

 11月になるかならないかというタイミングからもう何度も雪が積もる程降っている。勿論ここは雪国と言って良い地域だから雪自体珍しい訳ではない。しかし、大抵は年末からポツポツ降り始め、年が開けてから本格化、5月になっても降る事もある・・・といったパターンが多い。今年は冷夏だったし、かなり厳しい冬になりそうだ。雪の日は結構暖かいが、寒い日は既に摂氏マイナス20度くらいまで下がる事もある。
 まあ私はどちらかと言うと暑い方が苦手だから、寒さはそれ程気にならないが、それにしても何故この極寒の国に住む事になったのか・・・
 初めてこの国に住み始めたのは1986年。ワーキングホリデー制度を利用してのものだった。今では様々な国に行けるようになったワーキングホリデーだが、当時未だワーキングホリデー=オーストラリアだった。数年前にニュージーランドも加わっていたが、正直オーストリアの隣国ニュージーランドはイメージとして日本本州と沖縄くらいの違いにしか感じられなかった。前年の1985年にアメリカ格安旅行の経験はあるのに、日本では沖縄は勿論、北海道、九州、四国など一切行った事のない私(その後九州福岡に一泊する経験をしたが、その他の場所は未だ未経験だ。本州なら北は青森県、南は山口県と端から端まで旅行したのに不思議ではある)には尚更そう思えた。
 そんな訳だから私もオーストラリアに行くつもりだった。当時無料でワーキングホリデーの説明をしてくれる機関があって話を聞いたらその年からカナダが加わったと言う。帰宅してから検討し、家族にも意見を聞いたが、父がカナダならアメリカの一部みたいなものだから面白いんじゃないかと言う。ニュージーランドがオーストラリアの一部に思えてしまった私と良い勝負だが、欧米の人は日本、韓国は勿論、中国も含め1つの国のように思っている人も多いからお互い様ではある。私など父の意見を聞いて、そう言えばカナダはアメリカの隣かと思い出した程度だったのだからもっと酷い。父は仕事でアメリカ本土からカナダを通過してアラスカの方まで半年もかけて移動した経験があったからそういうイメージが強いのだろう。あの頃は景気も良くて父は長い出張が多かった。それこそ日本国内でも「父さんは何時北海道から戻るの?」と母に聞いたら「何言ってるの?今は九州よ」と答えが返ってきて唖然とした記憶がある。北海道から九州に行くのに東京の自宅にも寄らないとは・・・そんなスケールなら確かにアメリカもカナダも一緒に考えて不思議はない。
 そんな訳で、結局カナダに決めた。その年から始まった・・・つまりカナダのワーキングホリデー第一号の1人になると言うのが魅力だった。人数の多い今と違って、カナダ大使館で1人1人面接をしてヴィザの発行を許された。
 勿論仕事の当てなど何も無かった。取り合えず定石通り?日本から最も行きやすい西海岸のバンクーバーへ。この年バンクーバーではエキスポ(国際博覧会)が行われており、仕事も見つけやすそうだった所為もある。仕事も決めず旅立った事に最初の後悔を覚えたのは飛行機が飛びだった時である。今更ながら不安がら押し寄せてきた。実は当時日本人がカナダに行って苦労する「ライスカレー」と言うテレビドラマがまさに放送中だった。最初の方だけ視たが、その直後に旅立ったのでその時続きを視る事は無かったが、急に頭の中でそのテーマソングが流れてきて余計に不安になった。全く、今更・・・と言う感じだった。


303.原点・・・初めての外国暮らし(後編)

(11月30日更新)

背中に寝袋まで入ったバックパックを背負い空港に降り立っても勿論迎えがある筈もない。バンクーバーに着いて1週間は簡易自炊設備もあるアパートメントホテルを予約してあったが、その後はこの町に落ち着くつもりなら住む場所も確保しなければならない。1週間という縛りがプレッシャーとなって翌朝から精力的に動き回った。確かに万博で賑わう町は活気があったが、こっちは万博を覗きに行く心の余裕もなかった。いざと言う時に頼りにしなさいと両親が知る限りの人脈をリストにしてくれて、その中には万博のコンパニオンの女性の名もあったが(父の方のリストだったが、どういう繋がりがあったのかは定かではない)いざはいざだから連絡する事もなかった。
唯一経験ある仕事だし、食べるのには困らなそうだから飲食業をメインに探したが、何しろまったく英語も話せない状態だから、当然和食の店をまわった。数日後一件見つかって「取り合えず明日ヘルプに入ってみるか」と言われ、そのつもりでホテルに戻った。給料は激安だったが、まあ仕方なかろうと。ところがその晩一応履歴書を置いてきた土産物屋から、「うちでは空きがないが、ロッキー山脈のバンフ店で人を募集しているから行ってみないか」と言われ給料も良いのでこっちの話に乗る事にした。住む所も寮があるというのが魅力だった。
翌日バンフへ。かの土産物屋というのはあの大橋巨船氏がオーナーを務めるOKギフトショップだった。結局ここに2ヶ月お世話になった。社会に出てから飲食業以外の仕事をやったのはこの期間だけだったから貴重な体験だったと思う。何しろ今のようにバーコードを読み取るレジがある訳ではなく、計算しながら打ち込んでいくのは結構大変だった。交渉されたら負けていい額まで決まっていてその駆け引きの方は面白かったが。
居心地は良かったが、もとより一年の滞在が前提だったので僅かな期間で東に向かう事を決めた。多少は英語にも外国暮らしにも免疫ができてきたと判断。新聞を見てカルガリーの町で個人から中古車を買った。値段なんかいくらでも良いというので「じゃあ、300ドル(当時のレートだと2万5千円程度)」と言ったら「OK」。いかにぼろ車か分かるだろう。それでもスバルだけにちゃんと走った。おそらく大陸横断は難しいと思われたが、この値段なら他の交通手段より安く上げられそうだったので決意した。実際車の中で寝たりもできた。しかしやはり途中で壊れた。大陸半ばウィ二ペグの町に近かったので、その町で廃車手続きをして後はバスでトロントに向かった。初めての海外暮らしからほんの数ヶ月と言う事を考えれば当時の行動力は我ながらまあまあだったと思う。よくあの英語力でコミュニケーションが取れたものだ。
僅かな期間という思いがあったから、トロントでは日本人社会とは縁を切ると決めていた。レストランに狙いを定め、毎日裏口のドアをノックして歩いた。一応新聞の募集広告を見て行くのだが、何軒廻ったか覚えていない。あるレストランでついに「じゃあ明日からキッチンヘルパーをやってみるか」という店があって、店内と厨房を案内され、ほっと息をついた。ところが、翌日行ってみると私がやる筈の仕事をやっている人がいた。前日面接して採用を決めてくれた筈のマネージャーが私の袖を引っ張って外に連れて行き、「いやあ、今朝来た男なんだが、ついそのまま採用しちゃってねえ。もう働き始めちゃったもんだから。すまないな」と唖然とする台詞。「ちょっと、あんたそれはないでしょう!」とくってかかったら、無言で財布から2ドル札を出して私に押し付け、そそくさと店内に消えていった。暫くは呆然とその場に佇んでいた。勿論「ふざけるな!」と叩き返す場面だが、当時1ドルでトロント中何処でもバス、地下鉄で移動出来たから2ドルなら何処でも往復出来るという(当時のカナダの物価は驚く程安かった)有り難い額だったので、そのまま次の店に行く交通費に貰っておいた。そもそも2ドルがコインではなくお札だった時代だ。後からどんどん怒りの感情が沸いてきて、最初は「この町で見つからなければ次はモントリオールへでも」という暢気な気持ちでいたのが、この時「何がなんでもこの町で仕事を見つける」という決意に変わった。まあ住む所も決まらず3日に一度安ホテルに泊まり、後の2日は公園やらバスターミナルやらで寝ていたから(要するにホームレス)暢気でもなかったのだが。
しかし捨てる神あれば拾う神ありとは良く言ったもの。このとんでもない店の次に訪れたのがチャーリーとジェニファーが始めて間もないレストラン「Loons」だった。裏口のドアをノックすると満面の笑顔を浮かべたジェニファーが「ハーイ、何かしら?」と反応したので、今までの対応に慣れていた私はかえって面食らってしまった。「いや、あの、仕事を探しているんです。新聞で見て・・・」と言うと「それは素晴らしいわ。チャーリー、仕事探してる人が来たわよ」と呼ばれて出てきたのがチャーリー。いい加減無精ひげの生えた私と比べ物にならない立派な髭を生やした30になったばかりの若きオーナーシェフだった。「そう。じゃあ、こちらで用意した履歴書に記入して。ただし、既に君のほかに3人応募してきている。決まったら電話するから」と言われた。ようやくまともな対応を受けた私は何としてもその店で働くと決めた。電話すると言ったって、こっちはホームレス。携帯電話なんか影も形も無い時代だ。一応最後に泊まった安ホテルの電話と住所を知らせておいて、その後3回こちらから電話し、3回押しかけて、「その後どうなりました?」と世間話でもするようにまとわりついた結果チャーリーが「君の熱意には負けた。君に働いてもらう事にするよ」と。後にジェニファーが「あの時のNakiは、この人本当に仕事が必要だって感じだったわ」と何度もしみじみ述懐していたから、相当悲壮な覚悟に見えたのだろう。
しかしこの出会いがその後28年近くも経った今も私がこの国に住む理由となろうとは、その時は夢にも思わなかった。
よくしたもので、仕事が決まってすぐアパートも見つかった。ところで1年間しか有効でないワーキングホリデーヴィザだが、何しろ採用された初めての年。役人でもよく知らない人が多かった。情報社会、コンピューター管理社会の今なら有り得ない事だろうが、普通の労働ヴィザとの違いすら把握していなかった役所で試しに延長申請したらあっさり受理されてしまった。そんな訳で日本に帰国した時は出国した時より2歳年を取っていた。