essai 2012年9月



276.州選挙とマドンナのコンサート

(9月5日更新)

 予定通り3日にイベント最終日を終えて、そのまま帰りは陸路バスにて帰宅した。陸路の場合、列車でもバスでもモントリオール経由が前提となるが、うまくモントリオール発オタワ行きの最終バスに間に合った。到着は深夜だから正確には日付が変わって数分というところだが、まあ当日中に帰ってきたようなものだろう。
 週末は忙しい中抜け出してきたけれど、今週は学校が始まって最初の週。それこそまた週末まで暇なので、翌4日は休暇にくっつけて休みの日にしてきたからいざとなればモントリオールに泊まるつもりだったが、まずは間に合って良かった。と言うのも4日はケベック州の選挙日。最大都市モントリオールは色々と煩そうだったからだ。実際普段はのんびりしたモントリオールのバスターミナルでさえ、検問の様な事をやっていた。
 しかも現実に事件は起きた。今回の選挙は下馬評通りではあるが、ケベック独立を唱えるケベック党が久しぶりに政権を取り、同党のポリーヌ・マロワ党首が女性初のケベック州首相の座に着く事になったが、勝利の演説を行っていたモントリオールの会場で発砲騒ぎがあり、1人死亡、他にも重傷者が出る事件となって演説を一時中断しボディーガードに連れられて引っ込んだ程だった。
 しかしケベック党が第一党になったのは予想通りと言っても、かなりの僅差であった為に議席数は125議席中54議席に過ぎず(野党となった自由党が50議席)、独立に繋がるような大きな動きには当分なりそうもない。これが州民の意思と考えて良いのだろう。
 ケベック州独立に関しては1980年と1995年の2回に渡って州民投票が行われた。1980年の時の事は詳しく知らないが、1995年は私がイギリスのハンプシャーからケベック州に引っ越してきた前年だった。この時は何と賛成と反対の差が1パーセントにも満たなかった筈だ。翌年オタワ空港までチャーリーとジェニファーが迎えに来てくれたのだが、オンタリオ州とケベック州の州境であるオタワ川を渡る時チャーリーが「さあNaki、パスポートを出しておいて。もうすぐ国境だからな」と言い、ジェニファーが苦笑いしていた。そのまま今だに住んでいる私のアパートまで連れてきてくれたのだが、周辺には驚く程「売り家」と書いた家が目立っていた。ケベック独立の可能性に恐れをなした英系住民が次々に引っ越していったのだと言う。苦笑いの訳はこれだったのかと妙に納得したのを覚えている。
 それから16年ここに住んできて、私の周りでも随分英系と仏系のカップルが誕生し、結婚して子供を産んでというプロセスを間近に見てきた。勿論そんなことはもっとずっと昔からある訳だが、あくまで私自身の体験としてだ。英系ではなく英国人と仏系。仏系ではなくフランス人と英系なんていうカップルも幾らもいた。人種の坩堝と言われるカナダだが、チェルシーやウエイクフィールド(この名前は完全に英語でフランス語圏内にある両町名を見るだけでも複雑な事情が理解できる筈)には英系仏系を中心とした白人が圧倒的に多く。私の様なアジア人は勿論黒人もマイノリティだから余計にこの2つの社会の混合が目立つのだ。彼等、彼女等にとって今更独立などされたら親戚付き合いさえ不自由するに違いない。それは何もこの地域だけの事情ではないし、当時よりネット社会が進んだ今の時代、ネット公用語とも言える英語も無視できないだろう。今州民投票をやっても独立に傾く事はないと言うのが私の読みだ。今は家の周りに売り家など殆ど無い。

 久しぶりにちょっと硬い話になった。ところで肝心なイベントだが3日とも300〜400名のお客様で盛況だった。イベントの詳細については会の方のウエブサイトに近々アップする予定だ。
 会場がケベック市なのだから、鈴木会長が市内で最も有名なシャトー フロントナックに部屋を取ってくれようとしたらしいのだが、この9月1日の夜にはマドンナがケベック市にコンサートをしに来た事もあって市内のホテルは軒並み埋っていた模様。そんな訳で会長が以前総料理長をしていたあのオーベルジュ・ラ・ミューズに部屋を取ってくれ、思いがけずシャルルボアまで行くことが出来た。3日間そこからケベック市に通い、会長の友人が経営するケータリング会社の厨房を借りて仕込み、会場に向かうと言う毎日だった。
 私の所からシャルルボアとなると、アメリカのニューヨーク市に行くのと同じ様な距離だから、思えば遠くまで行ったものである。

277.十年一昔・・・
(9月11日更新)

 ケベック市から戻った週は学校が始まったばかりのせいか暇だったが、今週はうって変わって忙しい。月曜だけは何も入っていなかったが、火曜以降は壁に貼った宴会契約書が満杯。特に木、金、土は毎日3件以上バンケが入っており、しかも殆ど全て数百人規模。夏休みが終わった事で、この時期は結婚式とかより、会社や役所のパーティが多いと思う。
 9月11日は言わずと知れたアメリカ同時多発テロの日だが、去年で10年を超え、直接被害に遭った人たち以外には文字通り一昔になってしまったのか、あまりニュースなどでも大きく取り上げられていなかった。
 前回ケベック市に行ったのが10年前と書いたが、まさしくテロの余韻覚めやらぬ頃だった訳だ。アフガニスタンで戦争が始まり、飛行機で国外に出るのもはばかられての国内・・・しかも同じ州内の旅行だった記憶がある。実際それ以降は日本に帰省する以外の旅行はしていない。テロだの戦争だのの当事者から見れば呆れた暢気さだろうが、結構あの時は気疲れがして旅にでも出たくなった気分だったなと思い出す。何しろ当時務めていたレストランでNATO軍(勿論北大西洋条約機構の事)の幹部が極秘に会議をしたり、同店に当時ブッシュに次いで世界で2番目に命を狙われている男と評された某中東国大統領が食事に来たりとこんな田舎みたいな所でも流石に北米の首都圏だと思わされるきな臭さが自分の周りで起きていたのだ。こんな話しだって今だから書ける。10年を過ぎると言うのは少なくともそれだけの時間だと言う事か。


278.新総料理長も就任して
(9月23日更新)
 今週もまた忙しい一週間だった。6月は最多忙月と言っても、毎晩同じメニューと言ってもいい卒業パーティの月だから、2週目以降の9月こそ今年一番の忙しさかもしれない。因みに来月も数週間先までは今頃どうしたのかというくらい予約が入っている。今週から新総料理長マルタン・デボアー氏が就任したが、別にその特需と言う訳でもあるまいが。
 昨日はまた5件。1件は戦争博物館でデーブが担当し、ゴードン、ヴェズナと共に行き、残りの4件のうちVIPの小グループを新総料理長がマニーと2人で担当。大広間の170名のコースメニューは助っ人で今は昼間別のビジネスをやっているアランが久しぶりに来て担当。残りの200名のカクテルパーティ1件と、ヴォヤジュール サロンの90名の結婚式コースメニューの2件を私が担当(何故2件?)した。実際にはアランの大広間も手伝ったし、戦争博物館も準備は手伝ったので、マルタン シェフの1件を除いて4件に携わり、比喩では無く久しぶりに館内を駆けてまわった。運動不足は解消されるかもしれないが、金曜に14時間、土曜に15時間休憩無しの状態で働きながらの状態で走るのは年を考えると身体に良くなさそうだ(苦笑)。あっちこっちで小さなトラブルは起きていてドタバタ騒ぎだったが、最終的には全ての宴会が成功裏に終わり気持ちよく終われた。
 今日は久しぶりに宴会ゼロ件だったので、私ともう1人だけで明日の2件の準備をしただけで、どちらも100名以下でメニューも簡単なので日曜日らしく少しのんびりした仕事になった。明日は少しゆっくり出勤しても大丈夫そうだ。


279.理解に苦しむ

(9月30日更新)

 今週も月曜から日曜まで毎日バンケが入っており、週末は特に先週に次ぐ忙しさだった。分けても土曜日は金曜のうちに十分準備できる状況ではなく、また今週も(アランが今週は来れない分更に条件が厳しく)私は文明博物館で2件のバンケを掛け持ちで担当する羽目になったので朝の7時から出勤していた。またデーブが戦争博物館の方に先週同様のヴェズナ、ゴードンと3人で行く事になっていたがゴードンが10時、他のメンバーが全員11時には出勤してきたのにデーブが一向に現れない。他のメンバーには戦争博物館の準備を優先する様に言い、殆ど1人で必死の形相で文明博物館の準備を進めていたら、午後2時過ぎにのんびりデーブがやって来た。流石に新総料理長も黙っている訳にいかず、オフィスで話し合った結果として彼はそのまま帰らされた。それは仕方ないだろうが、戦争博物館の方はゴードン中心にしては3人でも手薄すぎるので2人増やして5人送り込む事になった。ただでさえ人数が足りないのにこの有様で、結局私はカフェテリアのルイとムサ(ムサは去年まで宴会にいたからある程度勝手が分かっているが)、ビストロのレスリーとアーレンなど他所から借りてきた人材を集めて2件梯子する羽目になった。多少時間がずれていたとは言え、やはり今週も走る事になってしまった。
 それにしてもデーブの暢気な行動は理解に苦しむ。日本ならこんなので強制帰宅された責任者なんて、首じゃなくても自分から辞めるしかないところだろうが、別に始末書ものでもなく、きっと平気な顔で帰ってくるんだろう。そんな例は沢山見てきたので今更驚かない。私でさえレストラン料理長時代にジョルジュからもっと全然つまらない理由(冷蔵庫の食品管理が甘いとかいう理由)で始末書を書かせられ、挙句に1週間料理長の立場を謹慎して他所のセクションを手伝うなんて罰まで受けたが、どう考えたってデーブの行動の方が始末書ものだと思う。私があの時そんな理由で始末書まで書いたのは、丁度コンパスグループの新方針でそういう細かい所を改善していく事が決まり、事実その翌週3日間に渡ってそれに関するビデオを全員が見せられた時期。一階の冷蔵庫が全員で使うのに対し、二階はレストランのスタッフしか使わないからレストランの責任者を処分するのが全社員に対する見せしめになるという・・・要は政治的裏事情があった。だからと言って責任逃れするつもりはないが、だったら一環してそういう方針でやって欲しいとは思う。
 誰もが出世を目指すのではなく、管理者側に立つ人間は若いうちからろくすっぽ経験も知識もないまま上に行く北米のシステムでは正直いい加減な人間がリーダーになる事は珍しくないのだ。フジェール時代のスーシェフにもある日突然来なくなってFaxで退職の由を送ってきたのがいたが、下手な新人の方が余程責任感がある。