エッセイ2008年4月


75.ジェイク・ウオーレン氏の思い出。

(4月6日更新)
今年度初の更新である。私としても2日の水曜日に丸1日かけて(私自身朝の7時から夜の9時まで居て)春の新ディナーメニューのテイスティングをした話だとか、それを受けての木曜日の経営会議の話などを書くつもりでいたのだが、その木曜日に帰宅してから、フジェールの総支配人であるカトリーナからの連絡でジェニファーのお父さんであるジェイク・ウオーレン氏の訃報を報され、とてもその気分ではなくなった。
前にもこのエッセイで書いている筈だが、彼は単にジェニファーのお父さんと言うだけではなく私自身個人的に親しくさせていただいていたからである。初めてお会いしたのは未だ私がトロントでチャーリーとジェニファーの最初のレストランであるルーンズにいた頃。娘夫婦がトロントでオープンしたばかりの小さなレストランを見に御夫妻で、このチェルシーから遊びに来た時の事であった(つまり、このチェルシーと言う町はジェニファーの実家があって、それ故にル・フジェールはこの地に誕生し、私も又ここへ来る事になったのだ)。当時はそれこそ雇い主の御両親と言うだけで、どういう仕事をしていたかすら全く知らなかった程だった。今更又繰り返すまでもないが、ジェイク・ウオーレン氏はカナダにとって最も重要な2つの国、旧宗主国イギリスと、隣国アメリカの大使を歴任した超大物外交官だった人物である。今も世界中に人脈を持ち、例えばフジェールにいたルーマニア人スタッフと話をすると、「そう言えばチャゥチェスク(旧ルーマニア独裁者の)に食事に招待された時・・・」などと言う話がいくらでも出てきたりした。日本にも何度か行っており、いつか「Nakiの御両親に」と言って古伊万里焼きの器を贈られた事もあるし、入退院を繰り返すようになった後も「これを今のうちにNakiに渡しておきたい」と中曽根元総理から貰ったと言う自著の「初日の出」という句集の英語版を杖をついて届けに来てくれたりもした。ジェイクは(ウオーレン氏と書くべきかも知れないが、ファーストネームで呼ばせていただく付き合いだったので)長年俳句の本を山ほど集めて研究していたが、自分では一度も作ったことが無く、「何しろ5・7.5だとか季語だとかルールも多いし、俳句は難しいからなあ」と口癖のように言っており、その度に私が「作品の良し悪しは別として作ること自体は難しく有りませんよ。スポーツと同じでどんどん作って行くうちにうまくなるんじゃないかな。僕だって子供の頃は作りましたよ」と言って、その場で考えて駄作を披露したりしたものだった。駄作を作って、それを更に英訳してみると我ながら尚更ひどい気がしたのだが、彼はいつも感心して聞いてくれた。「よーし、今度会う時までには私も俳句を作ってNakiに披露するぞ」と何年にも渡って言い続け、仕舞いには会う度に「出来ました?」「いや未だ」でお互い通じるまでになったが、とうとう1作も作らないまま逝ってしまわれた。昨日奥さんのジョアン(つまりジェニファーのお母さん)から電話があり「とうとうNakiとの約束を果たせないまま逝ってしまったわね」「俳句のことでしょう?報せを聞いてから、そのことばかり考えていますよ」と答えると「そうだと思ったわ。あの人はNakiが大好きだったからねえ・・・」と息を詰まらせていた。ジェイクとの思い出話はまだまだあるが、とてもここに全部書ききれないのでここまでにしておく。明日はフジェールで葬儀が行なわれるようだ。幸い私は明日休みなので参列できそうだが、各界の大物ばかりで居場所が無いかもしれない。せめてジョアンに最後に贈る俳句を作って手渡しに行こう。

76.それでも春は来る
(4月14日更新)
1回しか更新していない内に4月も半ばとなってしまった。先週は気温も少し上がってきて流石に冬も終わりかと思ったら3日前から昨日まで
時折積もる程の雪が降った。しかし今日は好天気に恵まれ、日本から戻って初めてゆっくりと仕事の事を考えずに休む事ができた。と言うのも本日ようやくパディが復帰する事になったからだ。ほとんど4ヶ月休んでいた計算だから本当に長かった。無論未だ当分は医師の指示に従って徐々に仕事をして行くと言う感じになろう。夏の昼間の計画(単に新メニューと言う事でなく、夏だからブッフェはあまりやらないとして、カジュアルなメニューの出し方をするか、ある程度フランス料理のオーベルジュらしさを出すのかと言った方針も)立てなければならないし、色々パディと話し合っておく必要があるのでまずは良かった。ジョルジュがシェフだった時は私は夜を中心に仕事をしていたので、ソーシェとして料理を作る事に集中していれば良かったが、昼間のル・ムーランには色々な顔があるので難しい。会議室で呼ぶ企業会員を中心としたホテルでもあり、フランス料理のファイン・ダイニングのレストランである1階と、地元の人や観光のお客様が気軽に立ち寄る2階のラウンジ、バー・・・夏にはぐるりとこれを囲い、滝を見下ろすベランダも含まれる。普通にオーベルジュとして食事をメインに滞在するお客様にしても、数日泊まって朝、昼、晩とアラカルトやコース メニューでは飽きてしまうし、朝をブッフェにして昼アラカルト、夜コースメニューにしたり、朝をアラカルトにして昼をブッフェにしたりと調整できる時はいいが、予約状況によってはブッフェを出すと大赤字になってしまう事も考慮に入れると、昼の固定アラカルト・メニュー作りの方針は何処をターゲットにしていいのか迷ってしまう。どのタイプのお客様でも何か食べたい物があると言うメニューにしておかないと、コースもブッフェも出来ない日に変化が出せなくなってしまう。これに加えてオーナーやら支配人やら、バンケットマネージャーやら、メートル・ドテルやら、バーの責任者やら内部の人達が各々の立場で要求してくる事との兼ね合いもある。パディが帰ってきて、一人で全部背負い込まなくて良いのは助かるが、逆にパディと私で意見がいつも一致するとも限らないので、その配慮も必要だ。早くもシーズンは始まりつつある。
フジェールのウエイターをしている私の友人の所に二人目の子供が誕生したニュースが届いた。多くの巨人達が亡くなっていっても、又新しい命が生まれる。春はやはり来るのだ。忙しいのは有難いことなのだろう。

77.À ma façon (私流)
(4月27更新)
今月は殆ど更新しないままに月末を迎えてしまった。後数日で5月。既に完全にシーズンモードになっており、毎日が忙しい。相変わらず何とか続けているフジェールの日曜シフトである今日も軽く100人以上のお客様であふれた。ア・ラ・カルトで100名以上の料理を昼間だけで出すのは殆どスポーツだ。でも、これが出来なくなったら自分はシェフとして終わりだといつも思っている。勿論これには異論があるだろう。パディは復帰して土曜にサラダなどの仕込みを手伝い、私のいない日曜と月曜にある程度調理場にいるくらいで、殆ど自分で現場に立たずに計画を立て、食材や人の手配をする事に専念しているが、これは病後だからではなく、彼は就任以来ずっとこういう風にやってきている。勿論彼は腕がない訳では無い。しかし昼間は私に、夜はロメインに任せ、またそれぞれの部門は部門シェフに任せ、調理場の運営者に徹しているのだ。私はしかし彼のそういう姿勢は尊敬している。私には出来ないと思うからだ。ここ数年でようやく自分で何もかもやろうとするのを抑えて、出来るだけ人に任せ、問題が無い限りは自分のやり方も押し付けないで、皆の個性を引き出すように努力するようになったが、基本的にはやはり自分でやってしまいたい衝動がある。本当はもっと小さな調理場で、殆ど自分ひとりで料理を作る方が向いているんだと思う。私の父は記録映画の監督だったので、全然違う分野の仕事だった訳だが、先日帰国した際に二人で近所の居酒屋に飲みに行って話したら、やはり監督の癖に自分で何でもやってしまう傾向に悩んでいたそうだ。父は元々劇映画の編集をやっていて、その後監督になったので、助監督から監督へという一般的なコースを辿らなかったが、流石にそのまま劇映画の監督になっていたら、そんな風には仕事できなかっただろうと思う。私の場合もこういう性格ならそれにあった職場を探せばいいのかもしれないが、成り行きで色々道がずれて行くのも案外人生の醍醐味かもしれないと考えるようにしている。しかしながら、そもそもフランス料理でシェフとして調理場に立つ場合、やはり大抵の人間はソーシェとして立ちたいと言う本能があるのではないだろうか。ジョルジュにしてもどんなに忙しくても週に1,2度は必ずソーシェとして立っていた。彼はソーシェ(メインコースの肉や魚を料理し、文字通りソースも作る)とガルド・マンジェ(主に前菜を作り、時にはデザートもやる)の二つのポジションを特に
重視し、自分がソーシェをやる時は「Nakiさん、今日は君がガルド・マンジェをやってくれないか」と言い、逆に私がソーシェをやる時は「それじゃ今日は私がガルド・マンジェをやろう」と言ってソーシェの脇でメインコースの付け合せを作るアントルメティェなどにはまず手を出さなかった。本来段階的にはガルド・マンジェの後アントルメティェに進み、ソーシェに進むのが一般的なコースだが、彼にはそんな事は一切関係なかった。「ソーシェとガルド・マンジェ、この二つがしっかりしていれば調理場は大丈夫だ。後はパティシェかな・・シェフもスーシェフもこの二つのポジションについていない時は脇役に過ぎないよ」とよく言っていた。パディはそもそもラインに立つ(営業中にポジションにつく)事自体がまず無く、普段は仕込みしかやらないが、ラインに入るとすると、逆にアントルメティェをやって他のスタッフに全て任せる。これは中々できない事だと思う。ただ病後復帰してからの彼はどうも色々な意味で精彩がない。平日の昼間は優秀なサーヴィス チームに恵まれているが土曜はそろいも揃って経験不足の子ばかり、昨日は天気が悪く、忙しかった前土曜日とうって変わって暇だったが、中の一人が「人数もいるし、もう僕は帰ってもいいですよね」などと言い出したので、「土曜日の昼は予約なしのお客様が多いんだから、もう少し様子を見ろよ。大体閉店間際が一番入ってくる傾向があるし」とアドヴァイスしていたら、パディが「Naki、ちょっと」と呼ぶので行くと、「Nakiの言うとおりだけど、俺も2〜3日前にキレてから、総支配人と話してさ。帰りたい人間はどんどん帰して、サーヴィスの事はサーヴィスに任せようって事にしたんだ」と言うので、「それは分かりますけどね。全部ホテルの評判に関わってきますからね」と答えると「評判なんてトイレに捨てちゃえばいいさ」などと言い出す。オイオイって感じだ。昼間のア・ラ・カルト メニューも結局夏に向けてメニューを変えず、オーナーの希望で現行のメニューを維持する事になってしまった。パディが交渉に行ったが、帰ってきて「まあオーナーはNakiの作った今のメニューが気に入っていると言う事なんだから、言い争ってまでメニューを変える事も無いんじゃないかな」との事。それは良いのだが、「パディ、何か疲れてるみたいだけど、未だ回復してないんでしょ」と言ったら、「いやあ、帰ってきたらあっちからもこっちからもプレッシャーでさ。昨日も眠れなくて睡眠薬を飲んで寝たんだよ」と。それはよく解る。彼がいない4ヶ月近くの間、そのプレッシャーは私が引き受けていたのだから。まあ長い闘病生活で、文字通り彼の気が弱っているのだろうと思う。病は気からと言うが、実際病気の9割は今も何らかの精神的なものからくるらしいし、せめて病院に逆戻りなんて事にだけはならないでもらいたいし。
シェフたって人間なのだから、皆それぞれに長所、短所もあり、自分の持つバックグラウンド・・・生まれつきのDNAや経歴、経験から自分の道を探すしかない。á ma façon(私流)と言うのは、何も料理の内容ばかりでは無いのだ。