essai 2007年 3月


31.3月になって

(3月13日更新)

久しぶりの更新になった。2月のエッセイのページが字が小さくて読みにくいと姉から指摘されたが、勿論自分でもオンライン上で確認しているので分かってはいる。どうしてこうなったのかと言うと1月に帰国した際このページを作るのに使用しているソフト ホームページビルダーをアップデートした為、未だ使いこなせていないと言うのが真相である。そういう訳で今回から既製の雛形を使わず白紙からページを作るのに挑戦してみる事にした。今までホームページビルダー Virsion5を使っていたのがVirsion11に一気にヴァージョン アップしたのだから、ずいぶん長年に渡ってページ製作してきたと言うことでもある訳で、そろそろ白紙からでも何とかページが作れるのではないかと思う。これでうまく今作っているイメージ通りにネット上で見られる様であれば、近いうちに2月のページも同じ方法で作り直す予定である。
新体制での仕事を始めて、早3週間程になり、1月と並んで1年で一番暇である3月であるにも関わらず私個人は忙しい。何しろ今までジョルジュがやっていた仕事のかなりの部分を私が受け継いだのだから、暇なら暇で1ヶ月先、2ヶ月先を見越して計画を立て、又この時期であるからパディと共に人件費削減の調整、材料費も抑えたりと考えなければならない事は多い。季節により稼動に大きな差がある観光地のホテルで継続的に利益が出るようにコストをコントロールするのは至難の業である。しかし流石に新シェフパディは大学で経済を学んでからこの世界に入った変り種でもあり、大手のホテルなどを中心としたキャリアを積んできた人物。この状況に最適な人材としてジョルジュが後任に推薦しただけあって彼の立てる計画は論理的だ。彼は無論技術も並々ならぬ物を持っているわけだが、料理に関する閃きの様な部分ではやはりジョルジュにはかなわない。計画が完璧であっても、ジョルジュ ローリエの料理で盛り返してきた路線を継続させていく事は必須で、彼が私に求めるのはジョルジュ ローリエの料理の継承者としての存在だ。と言っても別に私はジョルジュが残していったルセット(レシピ)に沿って料理を作っているとか言う訳ではない。大体彼は前菜のテリーヌやパテのような分量を図る必要がある物でもない限りルセットなんか作らない。彼と同じコンセプトで私の料理を作っていくと言う事である。コストの計算とか数学的な事は苦手な私だが、現実にコストを抑えても質を落とさない実践的な事なら26年かけて現場で身に着けて来たものがある。例えば牛のフィレ肉を掃除した後にでる屑肉だが、今までは屑でも肉の部分を筋から穿り出して、しかも賄いなどに使い、筋はフォン ド ヴォーを作る時に骨と一緒に煮込むのみだったが、この方法だと全屑肉の10分の1しか食用(くどいようだが、賄い用)に使えなかった。私は筋も屑肉も一緒にひき肉にして昼のバイキングのメインの肉料理に使う事にした。ひき肉などせいぜいハンバーガーやラザーニャ、あるいはケベック料理のトルティアやパート シノワといったパイ系しかこっちの人は思いつかないようだが、使い方によっては十分フランス料理の体裁でお客さんに出せる。元々カナダ国産のトリプルAと呼ばれる最上級の牛フィレからとった物なのだから素性も確かな訳だ。こういう捨ててしまうような部分の利用法なら私はジョルジュにも負けない自信がある。何故なら同世代でずっとこの道一筋で来た点は同じでも、20台前半で既にシェフとして活躍していた天才児のジョルジュと裏腹に人の何倍も下積みをやってきた事がこういう場面では逆に力となるからだ。
そういった料理面ではパディ自信「俺もNakiから学びたい事が沢山ある」と評価してくれるが、例えば人件費だとかいう問題になるとパディから学ばなければならないだろうが、どうにも苦手だ。全員の給料の金額などのファイルにアクセスする立場だから、誰がいくら貰っているかとか全て分かっている訳だが、調理場の1番下の見習いの子の時給などケベック州の最低賃金を下回っている。最低賃金の法律には抜け穴があって、施設(例えば寮)、交通費、食費などを現物支給とみなして給料に加算する事ができるので、この場合賄いを無料にする事で調整しているのだ。料理長、副料理長の賄い料理は無料と前に書いたが、1番下の見習いも別な理由で賄いがタダなのだ。そんなことしてもらったところで最低賃金を下回る時給ではとてものこと独立した生活など出来ない。それを暇な時期だからと時間をカットするなんて人の生活に関わってくるような問題を右から左、数字だけで操作などとても出来ないではないか。
こうした見習いの子達は直接私の下で働いているので、私としてもやたらとでしゃばらず、彼ら、彼女らに指導しつつ自分でやってもらうようにし、もっと給料の取れる職人に育てる事が私の義務の一つだ。不器用な私が今日あるのは見放さず鍛えてくれた先輩たちがいたからで、先輩たちは一様に「お前が上に立った時後輩を指導する事で返していくしかないぞ」と言っていたものだからだ。

32.ホテルの副料理長に専念すると言う事
(3月17日更新)
今朝は朝の5時半にホテルのオーナー ボブから直接電話が有り、朝食係(朝食は準備さえしておけば簡単だから見習いクラスの者が一人でやることになっている)がお母さんの具合が悪くて出てこれ無くなったとか言われ、そのまま出勤した。毎朝5時半にはどうせ起きているし、7時までには出勤しているとは言っても顔を洗っていきなり家を出るというのもつらい物がある。朝食は7時半からだが朝食係の子は毎朝5時半には出勤しているのだ
。勿論私がやれば7時に着いても間に合わない事はない。しかし間の悪い事に今朝は早朝から大雪だったので即出発しないとまずそうだったのだ。全く3月も後半だと言うのによく雪が降る。来週もずっと雪で気温もまだまだマイナス20度以下に下がるようだ。暖冬など前半だけだったようである。しかしホテルと言う物は24時間眠らない物だと改めて感じる。
こんなエマージェンシーがおとといでなくて良かった。おとといの木曜日は朝出勤途中で突然車が止まり立ち往生した。急遽日本のJAFに相当するCAAを呼んで近所の工場まで牽引してもらい、修理を依頼すると共にそこにレンタカーを配送してもらうよう手配した。ここまでやって僅か1時間余りの遅れで8時過ぎに職場に着いたのは奇跡に近いが、不幸中の幸いと言うか、この日は10時から会議に参加することになっていたので、念のため午前中私がいなくても支障が無いように全て手配しておいたので、1時間やそこらの遅れは仕事には何の影響も無かった。シェフ ソーシェとの兼務を離れ、副料理長に専念する様になって、一段と事務の仕事が増えた事は前回のエッセイでも述べたとおりだが、調理場を放っておいて4時間近くも会議にでるというのはどうも私には向いていない。「何かあったら呼び出せよ」と半ば呼び出されるのを期待して伝えてから会議室(勿論本来お客さんの会議の為にだが大宴会場他5室の会議室がある)に向かったが残念ながら?そんな頼りない部下はいない。しかし私など未だいい方で、料理長の方はこの1週間会議漬けだった。勿論今が1年で一番暇な時期で、これから1年間の方針を全て決めておかなければならないからこんな事になっている訳だが、一般のレストランと違い、様々なセクションが一体となって収益を上げていかなければならないから楽ではない。シェフのパディにしたって本質は料理が好きで割に合わないこの世界に入ってきているのだから、いい加減会議には嫌気がさしているようだ。しかし彼も今度の仕事には入れ込み、先週オタワからウエイクフィールドに居を移したばかり。覚悟が違う。会議の冒頭で社長から「別に極秘と言う訳では無いが、ここで話し合われた事は一般社員には直接伝えないように」などというお決まりの秘密めいた雰囲気で始まるのも好きではない。前の月の売り上げに至っては全員にコピーは配りはするが、会議の終わりには「誰かが置き忘れたのをホテルの部外者が目にでもしたら大変な事になる」とか言って回収する始末だ。まあ田舎オーベルジュとは言え、会議とはこんな物であると紹介する為に書いたが、流石にその内容はお気楽な日本語エッセイのこのページでも触れるわけには行くまい。会議もだが、調理場の隅にあるオフィスでパソコンに向かって作業していても背中の向こうの調理場が気になる。これは性格と言うものか。
ところで壊れた車だが、今回の故障はワイヤーが1本切れたというものに過ぎなかったが、その原因と言うのが、内側のフェンダーが錆びて崩れ落ち、ワイヤーを断ち切ったと言うもので残ったフェンダーの残骸を1時間半もかけて除去したようだ。車を保護しているのはフェンダーであるから、このまま乗り続けていると僅かな事故でも危険だと言われた。走行距離33万キロ。地球8周ほどしている計算だ。冬はマイナス40度近く、夏はプラス40度近くの気温。冬の間中散布される凍結防止の塩による腐食。こんな過酷な環境下でこの距離を走れば流石にタフだった相棒(Side kickと言う車名を日本語に訳すと「相棒」と言う意味になるので)もこの辺が寿命か。