- 1.2006年驚愕のスタート
- (更新日時;2006/03/22)
- やはりこの話から始めざるを得ないだろう。2005年の暮れは中々良い終わり方だった。本業であったグランメゾン「アンリー ブルジェ」の出張、宴会料理を担当する傍ら、古巣である「ル.フジェール」、師と仰ぐジョルジュ.ローリエ シェフが就任したホテル「オーベルジュ ル.ムーラン」にtournant(助っ人シェフ)をしにに行き、三軒のレストランを駆け回って仕事をした。ローリエ シェフからは同ホテルでスーシェフをやらないかとヘッドハンティングの誘いまで受けたが、1月に2年ぶりの休暇を取り、日本に3週間近く滞在する計画もあったので他の人を推薦した。ところが休暇が終わって帰ってみると「カフェ アンリー ブルジェ」が前の週に突然閉店したという驚愕の報せが待っていた。火曜日に発表され、その週の土曜日が最終日となったと言う。1922年に創業され、以来カナダの歴代の首相全員を始め、世界中の著名人、国賓等が訪れてきた店であり、現在カナダ、ケベックに散在する多くの名シェフを輩出してきた有名店。そのあまりにあっけない終焉はカナダ料理界に強い衝撃を与えた。しかし、とりあえず仕事のある私は幸運と言わざるを得ない。何しろ5日後にいきなり閉店という無茶な発表だった事もあり、私とシェフ パティシェの僅か2人を除く幹部は2ヶ月経つ今も失業中だ。ローリエ シェフが辞した後、事実上の総料理長を務めていた副総料理長のマニーなど去年の秋に3人目の子供ができたばかりという悲惨さだ。彼はローリエ シェフが自分で経営していた幻の名店「ローリエ シュール モンカレム」時代から10年以上に渡って付いてきた片腕で、本来ならローリエ シェフと共に辞めたかったところ、前述の家庭の事情で思いとどまった経緯がある。ローリエ シェフも勿論彼や、他の弟子たちの面倒をみたい所だが、ホテルにももはや幹部ポジションの空きは無く、そもそも3月はMarch
breakと呼ばれ、シーズン中休みの取りにくい飲食業も含め、順番に休暇を取っているような、1年で最も暇な月。この時季に店を移る料理人は殆どいない為、他所の店をあっせんする事も難しい。
いづれも腕におぼえのある料理人ばかりだから5月、6月のシーズンが始まれば引き手数多なのは間違いの無いところだが。
それにしても仕事があって幸運な方だとは言っても休暇が終わって帰ってみたら店がつぶれていたなんて衝撃の大きさは私が一番だったかもしれない。おまけに2月の頭にホテルの仕事場からの帰り道で、飛び出してきた鹿を撥ねた。鹿にも気の毒な事をしたが、とても避けられるような飛び出し方ではなかった。愛車スズキ サイドキックの修理代も数十万円相当。どうも悲惨な年の始まり方だ。「カフェ アンリー ブルジェ」は都会にあったが、「ル.フジェール」も「オーベルジュ ル.ムーラン」も田舎にあり、私自身その地域に10年程住んでいる訳だが、鹿どころか夏ともなれば熊がゴミ箱を荒らしに来たり、道路に飛び出したりする辺境。ところがこんな場所からものの15分か20分でオタワの国会議事堂まで行けるのだから、流石カナダと言うべきか。
- 2. シーズン到来
- (更新日時;2006/04/06))
- ようやく新たなシーズンが始まろうとしている。イースターで最初のラッシュを見せ、5月に入ってから本格的に忙しくなり始めるというのが、例年の流れだ。これは業界全体の傾向だから、どの店でも変わらない。料理人達もこの頃から動きをみせる。特にフランス系の向上心にとんだ者達は割合ワンシーズン毎に店を移る人が多い。「オーベルジュ.ル.ムーラン.ウェイクフィールド」でもシェフ.ソーシェが他店のシェフになる為今月いっぱいで辞めることになり、後任を私にとローリエ
シェフから打診され、快諾した。このページを訪れる人ような人はフランス料理店のポジションについてある程度知識があるかもしれないが、ソーシェというのは肉、魚などのメインコースを調理し、ソースを作る...その日の料理の最高責任者、事実上のシェフである。ロティスール、ポワソニエなど肉を焼く人、魚を扱う人など別にポジションを設けているのは少なくとも北米の最近の傾向としては、余程大規模なホテルくらいのものだろう。大抵はソーシェを中心に、アントルメティェ、ガルドマンジェ、パティシェくらいで後はそれぞれの部門にコミ(助手)を何人か置くというパターンが普通だ。小さな店ではソーシェはシェフかスーシェフが兼務しているのが普通だ。何れにしてもシェフ ソーシェはフランス料理の花形ポジションだし、事務的な仕事はシェフ、スーシェフにお任せて料理に集中できる有難い仕事、やっとまた出番が来たかというのが正直な感想だ。勿論ジョルジュ ローリエの料理を実際に作るのが私と言う事になり、勿論その日のスペシャルメニューなどは私の考えるものを出す事でもあるので責任は重大だがそれらはカフェ.アンリー.ブルジェで既に経験している事だ。
- 3.ルーツ
- (更新日時;2006/04/17)
- エッセーと銘打った以上やはりプロフィール以上の私のルーツに触れておきたいと思う。と言っても家は大正時代から続く洋食屋だった...などという話ではない。父は記録映画の演出家として半世紀も映画を作ってきた人だ。そんな仕事をしてきた割にコンピューター時代には乗り切れないようで、どうにかワープロ専用機でメールくらいは打つという程度なのだが、面白いものでYahooなどの検索で父の名前を打ち込むとかなりヒットし、その仕事歴の一端に触れる事が出来る。勿論私の名前など打ち込んでもヒットはゼロだから忸怩たるものがある。母は着物の染色家として、やはりその世界ではかなり知られる人で今も現役だ。いくつかの国立大学で客員教授をしたり、何度か海外で賞を受けたりもしている。因みに母の父親、つまり私の祖父は下町のブリキ職人だったし、どうも職人や芸術家の家系で私のDNAに商売人、あるいは普通の勤め人として生きていくのに向いた事柄は書き込まれていないと感じる。また両親とも早くから海外に出ていた事も私に影響を与えていると思う。父はやはり映画の仕事で主にアメリカ、アジアが多かったが、母は東京藝術大学を卒業してから日本舞踊花柳流の名取として活躍していた時期があり、日本の民間人が特別の理由が無い限りパスポートを取れなかった時代に文化外交の一環として共産圏からヨーロッパなども回っていた。母は忙しくても極力自分で子供達の食事の支度をする事にこだわり、弁当も毎日作り、店屋物なども余程止むを得ない場合しかとらなかった。当時は既製品の弁当を買ってくる友達を無いものねだりでうらやましく思う事もあったが、料理人になった今は当然その「食育」に感謝している。しかし前述のように早くから海外に出ていた母なので、圧倒的に洋食が多かった。私の世代では朝食は和風の方が圧倒的に多かったが、我が家ではトルティヤ.エスパニョラなどが食卓にのっていた。これはスペイン式のオムレツである。そのうち紹介する事になるだろうが、ケベックの伝統的料理にトルティアという似たような響きの名前のものがあるが、これは一種のミートパイでTourtièreと綴るが前者はスペイン語でTortillaと綴る。余談になるが、同じスペイン語圏ながら、スペインではTortillaがオムレツを意味するのに対し、メキシコでは薄いパンケーキのような、料理をくるんで食べる平たくて丸いパンの事をTortillaと言う。クロックムッシュも定番の朝食メニューだった。これはバターを塗った食パンにハムとグリュイエル チーズの薄切りをはさみ、フライパンで表面をきつね色に焼いたサンドウィッチだが、我が家にはクロック ムッシュ(croque-monsieur)専用のフライパンまであった。初めてフランスに行った時、パリのカフェでこれを食べて「ああ、お袋の味だな」と感動したのだから、そうとう変わった日本人だったかもしれない。もっとも最近の若い人なら珍しくないのだろうか。小学校は給食だったがこれも当時はアメリカの影響で洋食と決まっていた。我が家では夕食でもシチューにパンなどというメニューが登場していたから、朝、昼、晩とご飯を食べない事もあった。ドイツで和食の店に勤めていたとき、周りに3日も白いご飯と漬物を食べないと、到底我慢できないという人が何人かいた。和食の店で働いていたからいいようなものの海外で生活していながらそれでは大変だろうなと同情した。私などは今でも気がつくと1ヶ月も日本式のご飯を食べていないなんてことがあるくらいで、やはり人間の食の嗜好は子供の時に形成されるもののようだ。こうして考えてくると、この世界に入った事自体は必至ではなかったが、料理をやるなら最終的にはフランス料理に帰結というのは自然だったのかなとは思う。初めてきちんとしたフランス料理のコース メニューを楽しんだのは成人式の時。私は成人式には出席しなかったが、両親がそれならば代わりにと高輪プリンスホテルの“Beaux Sejour”を予約してくれ、姉と家族4人で食事した。その時レストランから貰った成人式特別メニューは今でもとってある。海の幸のサラダ、キャビア添え。野鴨のコンソメスープ。舌平目の2色ソース。そして牛フィレ芯肉のステーキ、クレープ包み、デザート...という今から思えばスタンダードなメニューだが当時は「うーん これがフランス料理か」と感無量であった。もっともそのメニューに店名の説明として“日本語ならば「良き日々」。”と書き添えてあるのは疑問だ。明らかに“sejour(滞在地、住処)”を“jour(日)”と混同しているのではないか。父は日大芸術学部の映画科時代フランス映画とフランス語の勉強に凝っておりムッシュとあだ名が付けられたほどだったから、やはり首をひねっていたようだ。しかしながら私は最初からフランス料理にフォーカスしていた訳では無く、ドイツなどで和食をやっていたのは前述の通りだ。また“Les
fougères”から“Café Henry
Burger”に移る前、5日間だけオタワの日本料理店で働かせてもらったりもした。その店をやがて任すからやってみないか?という有難いお話で、「料理は全て同じでしょう。だんだん貴方の洋食的アイデアを取り入れていけばいい」と言ってくれたオーナーの言葉にも動かされた。ところがやってみると全然面白く無いと言うことに気付いてしまった。ドイツで散々経験した事だが、和食には様々な制約がある。盛り付け一つとったって美しければそれでいいというものでは無く、扇を反対側に開かせれば死人用..だとか。縛りが多すぎるのだ。この事はフランス系のジョルジュ ローリエ シェフの下で働くようになって一層はっきりした。彼は私に対して自分の料理を押し付けない。自分のイメージを伝えて個々のシェフの解釈で作る事を要求する。作曲家のイメージが演奏者の解釈次第で変わるように作り手の解釈で料理が変わっても良しとする。それだけに料理を任すシェフ クラスの人間は彼の料理を理解していると確信できる者しか抜擢しないのは当然だが、要はフランス料理は個性が命ということだ。老舗の何代目に対して「この料理はまさに親父さんの味だね」と言えば和食では褒め言葉だが、フランス料理では父親の料理をコピーした没個性の料理人と侮辱したようにとられたりする。価値観の違いと言うやつだ。勿論どちらがどうという話ではない。ただ私の場合、やはりフランス料理の方が向いていたと言う事らしい。つくづく思うのだが、人間の一生はDNAから隔離してはあり得ない。両親、先祖からのDNA、また日本人としてのDNAからも。いづれこういう事に関して再び書く機会がありそうだ。
- 4.カフェ アンリー ブルジェの話
- (更新日時 2006/04/22))
- Restaurant “Café Henry Burger”(カフェ アンリー ブルジェ)の創業は1922年。大正11年であった。日本ではカツ丼が誕生した頃の話らしい。何しろ洋食をフランス料理に進化させた第一人者と言われる帝国ホテルの故村上信夫シェフが1歳足らずの赤ん坊だった頃なのだから。高級フランス料理店なのに「カフェ」と付けられているのは、おそらく当時は珍しくなかったのだろう。例えば「優雅の殿堂とされ、数々の創作料理を生んだ伝説のレストラン“Café
de Paris”がパリのブルヴァール.デ.ジタリアンに誕生したのは1822年(このレストランは1856年に店を閉めたが、後1878年から1953年まで、同名のレストランがオペラ座の角にあり、ここも有名)丁度カフェ アンリー ブルジェより100年前の誕生だから、案外そこからあやかったのかもしれない。何故Henry Burgerがヘンリー バーガーではなく、フランス語読みのアンリー ブルジェなのか?これは創業者の名前である。アンリー ブルジェ氏はフランス系のスイス人で、16歳でニューヨークのウオルド−フ ホテルで料理人としてスタートしたが、やがてオタワの象徴的ホテル、シャトー ローリエのメートル ドテルを務めるようになった。1921年、彼のシャトー ローリエでの最後の仕事は後のエドワード8世である王子の接待の最高責任者であった。エドワード8世と言えば離婚歴のあるアメリカ人女性と結婚して退位した「王冠を捨てた恋」で有名な王様で現在のエリザベス女王から見れば叔父に当たる後のウインザー公だ。徒然なるままにどんどん話がそれていくが、それた序に書いておくと、このシャトー ローリエ ホテルの創業は1912年。調度品を乗せた船が到着しなかった為に予定より遅れての創業となったという。到着しなかった船というのはあのタイタニック号である。それはともかく1920年に結婚、1921年に宗主国の国王を接待、そして1922年にカフェ アンリー ブルジェを創業、と正にこの頃のブルジェ氏は絶頂期にあったと言える。しかしその後は火災、膨大な経済的損出で一時閉鎖や移転を繰り返しながらもかろうじて生き残っているような状態でアンリー ブルジェ氏は1936年59歳の若さで他界した。アンリー氏亡き後も彼の妻であるマダム マリー ブルジェによって店は引き継がれた。マリー ブルジェ氏は誰からもマダムと呼ばれ、親しまれたと言い、創業以来の全てのカナダ首相や総督、芸術家、俳優、王族など豪華なゲスト達により、首都圏一のグランメゾンとしての地位を確立した。1982年、レストランはロベール ブーラッサ シェフによって受け継がれた。程なく首都圏のフランス料理界の重鎮となるブーラッサ シェフは業務を拡大。特にTraiteur(ケータリング)に力を入れた。後にこのセクションを私が任される事になる訳だが、一口にケータリングと言っても、イベント会場で500人前も作るブッフェ形式のものもあれば、日本で言えば議員会館にあたるような所、各国大使館、財界人の排他的パーティから、オタワ川の遊覧船やハル市(現在はガティノー市ハル地区)とウエイクフィールド町を結ぶ蒸気機関車で生演奏の音楽を聴きながらフルコース ディナーを食べるというオリエント急行を彷彿とさせるようなものまであった。レストランには行ったことがなくても、この機関車の中で、カフェ アンリー ブルジェのコースメニューを食べた事はあるという日本人は意外と多いのでは無かろうか。同機関車では今後別のケータリング専門の会社がリーゾナブルな料理を提供するらしいが、チューリップ フェスティバルの簡易カフェやガティノー花火大会の出店など、オタワ周辺の行事には必ず出ていた名物店が消えるのは第三者的な目で見ても寂しい。カナダ文明博物館(カナダ最大の博物館で、米大統領や中国主席など国賓が来れば必ず訪問する。)の真向かいと言うロケーションも手伝い、こちらの観光ガイドであればどの本を買っても必ず名前が出ていたが日本のガイドブックでは私の知る限り「地球の歩き方、カナダ東部編」くらいにしか出ていない。同ガイドブックの現在発売中のものにも出ているはずだ。何しろ従業員ですら5日前に知らされると言う突然の閉店なのだから、レストランガイドなどにも全て掲載されたままの状態だ。因みに「地球の歩き方」ではヘンリー バーガーと記載されている。こちらでも英語系の人はそう読む事も多いのでこれは仕方が無い。しかし私なども10年前ケベックに引っ越してきた時にはハンバーガーの店かと思ったくらい誤解を呼びそうな英語読みではあった。
- ところでジョルジュ ローリエ シェフだが、彼もこの店で修行を開始した有名シェフ達の一人であった。その僅か数年後には料理オリンピックカナダ代表の順メンバーに選ばれるなど最初から天才ぶりを示したローリエ シェフだが、ブーラッサ シェフの弟子である事は事実だ。まあローリエ シェフがいなくなった後はブーラッサ シェフが復帰したから、私もまたブーラッサ シェフの弟子でもあった訳だが。フランス、スイスでの修行を経て1995年に予約のとれない繁盛店ローリエ シュール モンカレム(モンカレム通りのローリエ)をオープンし、一方北米全域でオンエアしていたテレビの料理番組にレギュラー出演するなど大成功を収めていたローリエ シェフがその繁盛店を閉めてまでカフェ アンリー ブルジェ の取締役総料理長に就任したのも自分の出身母体であるグランメゾンへの思い入れであった事は否定できない。私はローリエ シェフ就任直後に採用されたので、当時はテレビ、雑誌、新聞が連日取材に来ていたものだった。私自身少なくとも3回はテレビに映ったらしく、人から指摘されたが勿論自分では見ていない。運動会ができるような厨房に30人の料理人が走り回っていたのも早過去になろうとしている。黒服のギャルソンが銀製のドーム型のカバーを目の前でパッと外すと広がる香り。リーデルのグラスに並々と注がれる年代もののワイン。よく磨かれた銀のカトラリー...こんないかにもなフランス料理店は首都周辺ではあの店で終わりになったかもしれない。
- 最後にこれを読んでいる人で旅行などでカフェ アンリー ブルジェ本店やケータリングでお客さんとなられた方、このレストランに何らかの形で関わられた方がおられたら、ムッシュ ロベール ブーラッサに代わり、お礼を申し上げておきたい。
- 5.アレルギーと嗜好の話
- (更新日時 2006/04/27)
- 今更言うまでもないがカナダと言えば人種の坩堝である。無論ケベック州とて例外ではない。ただケベック州はフランス語圏である為、東洋人ならカンボジアやベトナム、かつてフランスの支配下に置かれたアフリカ諸国などからの移民が多いと言う事はある。これだけいろんな人種が集まれば食に関しても多様化されるのは当然である。それにしてもアレルギー体質の多さとその種類の多さには驚かされる。乳製品、木の実、麦などのアレルギーはよく分かるが、中にはトマトや玉葱などちょっと首をひねるようなものもある。しかしあるお医者さんに聞いたところ、余り聞かないが絶対に無いとは言えないという事だったから、あるのかもしれない。20品目ものアレルギー リストを持ってご来店するお客さんもいて、さぞ普段の暮らしも大変だろうと想像できる。いや確かにアレルギーは恐ろしい。昨年このケベック州でピーナッツアレルギーの15歳の少女にピーナツバターを食べた少年がキスして死亡させた「死の接吻事件」と言うのがあったほどだ。ただ、どう考えてもおかしい...例えば「酸アレルギーだから、くれぐれも厨房に宜しく伝えて欲しい」と言ったすぐ後でワインを頼んでがぶがぶ飲んでいる人もいる。第一幾らなんでも一つの国にここまで沢山のアレルギー体質の人はいまいと思うような数なので、ウエイターなどに聞くと、「それはシェフの言う通りだと思いますよ。だからと言って、嘘だろうとも言えない訳で。」との答えだ。しかしアレルギーと言うわけではないが苦手な食べ物があるなら「苦手」と一言言ってくれれば、それくらい外すのだが。苦手といえば、私の住むケベック州オタウエ地区や、オタワ周辺が内陸部である為なのか海産物は一切駄目と言う人もかなり多い。日本人の場合、海に囲まれているせいか、個々の魚介類について食べられないものがある人は結構いるが、海産物、魚介類は一切受け付けないという人はそういないのではないだろうか。人種の多様さ故に当然宗教、習慣的な理由で食べられないものが多々ある人も多い。イスラム教などはまだしも豚とアルコールなど数品目に留意する程度だが、これに対立するユダヤ教は最も注意を要する一つだ。ユダヤ教徒の食事はコーシャ(ヘブライ語で「聖なる」と言う意味)と呼ばれる。豚肉が駄目なのは皮肉にもイスラム教と同じだが(もっともコーランによるとこの二つの宗教は元々兄弟のような関係と書かれていると聞いた)、その他に海老や蟹などの甲殻類も駄目。ミルクやクリームなどを肉と一緒に料理したり、一緒のテーブルに出すだけでもタブーである。こういった禁止されたものを料理したのと同じ鍋、フライパン、その他の調理器具、食器、カトラリーを使う事さえもいけないとされるので“カフェ アンリー ブルジェ”などでは常連のユダヤ教徒のお客さんの為に熱湯消毒した専用の調理器具や食器を用意したものだった。その他にも酒、煙草やお茶、コーヒーが駄目なモルモン教などは、それだけ聞いていると仏教の修行僧(仏教徒はお茶は飲むが)みたいだが、敬虔なモルモン教徒の友人の趣味は狩猟で、肉ばっかり食べているようだから、殺生は禁じられていないようだし、イメージではくくれない。一つ一つ勉強して対処していく以外に無いのだ。勿論宗教のほかに習慣もあれば、ベジタリアンとか、チーズやクリームぐらいは摂るベジタリアンより更に厳格に野菜以外食べないベガンと言う人達もいる。特にカナダは出身国の習慣を捨てさせ、同化させようとはしないのが国是だから、宗教、習慣に尊厳を持つ事が求められるし、いかに多様な人種であっても、共に同じ学校に通い、同じように就職し、異人種間の婚姻も珍しくない。当然レストランに来ても一つのテーブルに着いたりする訳だ。このような事情から、家族はともかくとして、会社の同僚4〜5人で食事に来て、全員が何でも食べられるというのはむしろ稀である。アレルギーも命に関わるものもあるので神経質になるが、糖尿病など食事制限のある病気も数え上げればきりが無い。実は一番厄介なのがSodium
dietで塩は一切駄目というお客さんだ。“ル.フジェール”の常連さんにもいるのだが、そもそも初めてご来店下さった時に私がソーシェをしていたので、塩抜きでどれだけおいしくできるか悩みに悩み、ブイヨンに果物を入れてつめたソースや焼き加減にも工夫して口当たりを考えたりしたらひどく気に入ってくださって、口頭で褒めて、ゲストブックにまで感動したと書いてくださり、それ以来常連になったのだ。その時の料理は見た目は中々うまそうに出来て、ウエイターも「いやあ、うまそうですねえ」と感心していたが、ソースを味見したら当然無味に近かったので、自分では納得していなかったのだが、要は他のレストランでは塩抜きと言っただけで御座なりの物を出される事が多かったと言う事なのだろう。結論のような事になるが、この国では「シェフのお任せ1コースのみの店」は存在し得ないと思う。
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Harb
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