35.ホテルと街場のレストラン
(5月1日更新)
今月こそ更新回数を増やそうと、取りあえず1日から更新してみる事にした。今年の冬は本当に後を引き、未だ早朝出勤する頃には車の窓ガラスに霜が張る程冷えたりする。そうは言っても来週くらいには例によって一足飛びに暑くなるようだ。シーズンも正に始まったなと言う印象で、バンケットなどもかなり先々まで予約が入っている。先日ウタウエの観光協会から料理に関する最優秀賞を受けた事は前回書いたが、ホテルとしても今回ケベック州で4つ星のカテゴリーに入ったとかで、ようやくこのオーベルジュの評価が上昇してきたようだ。5月4日をもってこのホテルは6周年を迎える。丁度1年前の5月のエッセイで書いたとおり、築1840年、つまり今年で167年経つ建物だから、なにやら老舗ホテルの様に見えるが、実際にはまだまだこれからのホテルなのだ。スター シェフ ジョルジュ・ローリエ氏の2年程の活躍と、彼によって集められたスタッフ(私もそうだが)で、どうにかオーベルジュらしい体裁になってきたが、ジョルジュが就任する前の4年間は僅か4年足らずの間に6回もシェフが交代し、「場所はいいが、料理は今一」と言うフランス料理のオーベルジュとしては最も有り難くない評価を受けていたのだからオーナー夫妻としても感無量の様子だ。およそホテルにせよ、レストランにせよ、評価が定着するには時間がかかるものだから、僅か6年と言う見方も出来る。中々辣腕のオーナーと言う事になろうか。ところで、ホテルが街場のレストランと特に違う点は、従業員が必ずしも全員飲食業の予備知識を持っていない事ではないかという印象がある。人事部長や、オーナーの事は前にも書いたが、例えば経理にしても、食材の値段の変動や、原価計算時の加工された食品の影響など、飲食業の知識が皆無で、ホテルの他のセクションと同様、伝票と売り上げ、在庫の3点を表面的に計算するしかない経理部長の計算と調理場での計算では驚く程乖離した数字が出る。私やパディが幾らコスト削減と売り上げ増進に腐心し、又確実に成果が上がってきているなと調理場サイドの計算で自負しても、前の月の在庫やシェフが交代した事による在庫管理計算の変化など、諸々の数字のマジックで、経理の出す原価計算は信じられないほどのパーセンテージになったりするのだ。パディが数学に強いから、そのまま受け入れることはないが、彼は毎日こんな事に追われて、自分が包丁を握るのは週に1度あるか、ないかという悲惨さだ。私は毎日自分で調理場に立てるし、考えてみるとずいぶん楽かもしれない。もっともそうでなければ、街場のレストランに戻るだろう。何度も書いているようにホテルのシェフなど私には向かないのは明らかだからだ。今や幻のグランメゾンと化してしまった前の店カフェ・アンリー・ブルジェにせよ、ル・フジェールにせよ、オーナーシェフによるレストランはこういう心配が無くていい。しかし、エンジニアや、ハウスキーパー、Spaのセラピストなど様々な人達で構成される小さな街のようなホテルならではの面白さもある。考えてみるとこの世界に入ったきっかけは18才の時に長野県の小さなペンションで働いた事から始まっている。その後、イギリスのホテルでも働いたし、カナダの永住権申請の為、一端国外に出た時はお台場のホテル日航東京の調理場でもお世話になっていた。ホテルとも結構縁はあるのだ。
36. ジョルジュ・ローリエ氏の今
(5月11日更新)
ジョルジュから連絡が有り、ガティノー市ハル地区の文明博物館及び姉妹館であるオタワの戦争博物館の両方の飲食部門の総料理長に就任するらしい。コンサルタント業への転身が、現場復帰に変わったことについては他の人は驚いたかもしれないが、私は全く驚かなかった。以前あるアメリカのシェフが言っていたが、シェフ業というのは一種の麻薬みたいなもので、一度とことんやると中々抜け出せない興奮がある仕事だからだ。ほいほい辞めてしまう人には、そこまで達していないという事が多い。
文明博物館はカナダで最大規模の博物館。カフェテリアの他にレストランもあるが、夜閉館した後は全館が一大宴会場に変身するそうで、そっちがメインの様だ。勿論戦争博物館の方も同様だ。ジョルジュの事だから、色々面白い計画は立てているとは思うが、彼は文明博物館の場所そのものに特別な思い入れがあるのではないかと言う気もする。このウエブサイトのホームページの写真は元カフェ・アンリー・ブルジェがあった辺りで撮影したとコメントに書いているが、正確には文明博物館の庭先から撮影した物だ。つまり文明博物館と言うのはジョルジュがキャリアをスタートした場所でもあるカフェ・アンリー・ブルジェの真正面にあるのだ。私もアンリー・ブルジェ時代にはこの博物館の会員(年会費を払っておけばいつでも入れる)になっていて、冬は暖房、夏は冷房の効いた休憩室みたいに利用していたほどだ。勿論博物館そのものが好きだからで、休憩は2の次だが。特に昔のカナダを再現した常設展示場はタイムスリップした気分になれたものだった。最近“Night at the Museum”という博物館の人形たちが夜に動き出すという映画を見たが、ああいう世界が好きなのだ。
話が横道にそれたが、文明博物館はカナダの象徴とも言うべき場所で、海外から国賓が来加すると、殆どの場合ここに連れて行かれる。近年では未だイラク戦争でもめていた時にジョージ・ブッシュ米大統領が訪れた時が大騒ぎで、アンリー・ブルジェは昼の営業を自粛せざるを得なかった。著名人でもあるロベール・ブーラッサ オーナーシェフはテレビのインタビューで、「英国から女王が来た時だってこんな馬鹿げた騒ぎはなかった。米大統領にしても前大統領のクリントン氏が来た時は何の問題も無かったのに。」と憤慨していたが、その後で中国国家主席が来訪した時も結局店を休まざるを得なかった。この時はどうしても断れないケータリングが1件あって、私がたった一人で出勤した。重装備の警察官達がずらっと並び、その後ろから「熱烈歓迎」の横断幕をもった地元在住の中国人団体が首をだしているその真ん中を包丁ケース(ショットガンのケースに酷似している)をぶら下げて歩いていくのは度胸が必要だった。この場合、自分が黄色人種である事はプラスなのかマイナスなのかと馬鹿げた事を考えながら歩いていたのを思い出す。実際問題としてアンリー・ブルジェを占拠して文明博物館を狙えば、米大統領も中国国家主席も十分命が危ないという距離なのだ。
アメリカに基地を提供した為、ブッシュ大統領に次いで2番目に命を狙われている人物と言われた当時のムジャラフ パキスタン大統領がレストラン ル フジェールに食事に来た時、私はフジェールにいた。フジェール始まって以来のパトカー、白バイが並ぶ騒ぎだったが、特に店を貸切にすることも無く、通常営業が行われた。実際フジェールには大統領、国王などの国家元首や各国の総理大臣、閣僚が頻繁に訪れるし(無論アンリー・ブルジェもそうだったが)、あの戦争の時だってNATOの幹部が非公式な作戦会議ともいうべき会食を行ったりしたが、1度としてその為に他のお客さんを締め出したようなことは無い。マダムのジェニファー・W・パートのお父さんは私も親しくさせていただいていて、今は隠居して悠々自適の方だが、かつては駐米、駐英カナダ大使を歴任した超大物外交官だった人物。シェフのチャールス・パートのお父さんも王室御用達のグッズを取り扱う商社のオーナー社長だった人物。子供の頃から国賓に囲まれていたような2人が経営しているだけに泰然自若としたものだ。
それにしてもジョルジュはこの新しい舞台で何を計画しているのか楽しみではある。
37.初めて作った料理
(5月15日更新)
びっくりするほど暑くなったかと思えば又気温がぐっと下がったり、こんな事の繰り返しでスープ一つとっても温かいスープにするか、冷製スープにするか前もって判断するのが難しい。前日に作る場合は例えばパースニップと林檎のスープのように温かくても冷たくてもおいしいスープにしたりしているが、なるべくその日の朝に判断して新しいスープを作るように心がけている。今朝はまた肌寒いくらいだった。おととい母の日だったからと言う訳でもないが、急に思い立ってロシアのスープ、ボルシチを作ってみた。ボルシチは小学生の頃「母子料理教室」とかいう本を元に母に手伝ってもらって作った生まれて初めての料理だった。
勿論今はプロとして作るのであるから、自分で考えたレシピに基づいて作った。と言っても非常にシンプルなレシピだ。多目の玉葱を中火で炒め、ビーツと水を加えてしばらく煮込み、トマトの水煮を加え更に煮込んで柔らかくなったら大型のバーミックスでピューレ状にし、赤ワイン酢とサワークリームで味を調整し、これとは別にマッチ棒状に切っておいたパースニップ、人参、ビーツ、赤キャベツを軽く炒め、最後にこのマッチ棒状の野菜を先のトマトとビーツのピューレの中で軽く火が通る程度に調理して出来上がりだ。タイミングさえ間違えなければ実に簡単だ。小学校の時に作ったのは更にずっと簡単だった筈だが、勿論小学生には大仕事だった。否ただこれだけの話なのだが、やはり生まれて初めて作った料理と言うのは感傷的になるものだ。
38.総料理長の役割とは
(5月28日更新)
明日からパトリック・コスチュー シェフが10日程休暇に入るので、又私の雑務が増える。彼はシェフ就任以来、多大なプレッシャーと戦ってきたのだから、ここはゆっくり静養してもらって・・・と私は思うのだが、一部の部下たちにはあまり評判がよろしくない。パディ(コスチュー シェフ)は就任以来まるで仕事をしていないと言うのが彼等、彼女等の意見だ。他所の世界の人達から見れば尚更だろうが、やはり修行を始めて間もない料理人達の目には調理場に立たないシェフは仕事をしていないと映るのだろう。実際のところホテルやグランメゾンともなれば日本でもそうだと思うが、総料理長は滅多に自分で厨房に立たない場合が多い。
「でもシェフ ジョルジュはどんなに忙しくても週に2回ぐらいは必ず厨房に立ちましたよね。パディは(そもそも誰も彼をシェフと呼ばない)就任以来3ヶ月か4ヶ月かの間に厨房に立ったの数えるくらいしか無いし、たまに調理場に入ったと思ったらサラダとか作ってるし。」
「彼も本当は現場に立ちたいんだよ。食材の管理、コスト計算、従業員のスケジュール、ホテルの他のセクションとの会議に次ぐ会議、総料理長の役割は山ほどある。誰かがやらなければならない仕事だ。料理を私やロメイン(シェフ ド ソーシェ兼準スーシェフ)に任せて、自分はそれらの仕事を一手に引き受けているんだよ」
「それは分かりますけど、全く厨房に立たないシェフって言うのは、これは如何なんですかね。Nakiさんはどっちのやり方が正しいと思います?」
「どっちが正しいと言う事は無いよ。やり方が違うというだけのことだ。」
と答えたが皆あまり納得した様子ではない。おそらく私が立場上庇っているだけだと思ったのだろう。いや、そういう面も無くはないが、私もパディの事はよく知っているし、本来なら彼のような経歴ならホテルの経営者のような方向に行ってもおかしくない。つまり他にいくらでも効率良く収入の多い仕事を選べただろうに、料理人などという割のよくない仕事を選んだのは彼も又料理が大好きだからなのだ。調理場に立つ暇の無いフラストレーションは彼が一番感じていると思う。本来短気な彼が、今回シェフになって以来、殆ど切れることがないのも相当抑制が働いていると感心する。余談だが料理人は大抵短気な人が多い。ジョルジュだって結構切れていた。「Nakiさんはシェフには珍しく温厚ですよね」などと言われることが多いのだがこれには苦笑する。母が聞いたら笑うのではないだろうか。何しろ小学校の時、学校から「自分で思う長所」というのを提出するのに「忍耐強い」と書いたのだが、一緒に提出する「母親から見た子供の短所」に「短気」と書かれ、「これじゃ矛盾じゃないか」と食って掛かったら、「ほらもう怒ってるじゃない」と言われて絶句した覚えがある。勿論料理人になってからもずっと短気だったが、ようやく最近になって年齢もあって、滅多に切れなくなったと言うだけの事なのだ。因みにこのホテルに来てから一度だけ、あるウエイトレスに完全に切れたことがあった。そのウエイトレスが何の間違いか、つい最近メートル・ドテルになった。30年くらいこの世界に居ると言うが、正直言ってまともな経験をつんできたようには見えない。私の料理については彼女はやたらと褒めるが、寧ろ駄目出ししてみせろと言いたいくらいだ。しかし今は同じマネージャー(シェフ、スーシェフは調理場のマネージャーという位置づけなので)と言う立場だから、これこそ皆が彼女について文句を言うのに、内心は「そうだ そうだ 尤もだ」と思っても庇うような事を言わざるを得ない。
話が少しそれたが、本当の話、シェフとしての能力と料理人としての能力は必ずしも一致しないのだ。名料理人イコール名シェフとはいかないのが実情だ。ただし逆から見れば当たり前の話だが、名料理人で無い人物が名シェフと呼ばれる事は有り得ない訳で、そこが難しいところだろう。パディは勿論料理人としても並々ならぬ物をもっていると私は思う。ただ前任者がケベック州屈指の名シェフであったが為に目立たないというだけだ。ところで、再三書いているようにパディは数字に強い。だが実は数字に強すぎるのが彼の弱点になっているように見えるのがこの仕事の複雑なところだ。彼は方程式のように完全な数字を出そうとし、結果首をひねる事が多い。この仕事は俗に水商売と言われるように、食材の値段の変動、集客率にしても、その日世の中に何が起きているかで天と地ほども変わってくる。例えばこんな話がある。ドイツに居た時の事だが、数百キロのマグロをパリの市場で購入したのだが、開いてみたらガソリンのような匂いがして、どうやっても使えず、全部廃棄する事態に立ちいたった。百万円もの損害である。当時は湾岸戦争の真っ最中。そのマグロはサダム・フセインが油を流した海を命からがら泳ぎきっていたのだ。この戦争で質のいいイスラエル産のメロンも手に入らなくなった。その後も狂牛病のイギリス、鳥インフルエンザのカナダ、食材一つとっても大変動があった。集客にしてもアメリカ同時多発テロのようなものが起きるたび、ホテルもレストランも劇的に客を失う。来年の数字など今から完全に出す事は不可能なのがこの仕事なのだ。ジョルジュも数字に弱い訳では無かったが、本来芸術家的性格であったため、非常に柔軟であった。
「Naki、我々は科学者でも数学者でもなくキュイジニエ(料理人)だよ」とよく私に言っていたものだ。
方程式のような答えが出ないからこそ、この仕事は面白いのかもしれないが。